特攻の哀切30年かけ手記に 元爆撃機搭乗員の95歳 「若い人に伝えたい」

西日本新聞

 旧日本海軍大尉で、艦上爆撃機の搭乗員だった福岡県宗像市の丸田鉄夫さん(95)が自らの戦争体験をまとめた手記を30年がかりで書き上げた。太平洋戦争の開戦から77年となる8日、手記を託した大刀洗平和記念館(同県筑前町)で初めて講演する。出撃を見送った特攻隊員たちの哀切、特攻の待機命令を受けてからの自らの心境…。「ありのままの事実を子や孫に伝えたい」と語る。

 丸田さんは同県飯塚市出身。久留米高等工業学校(現久留米高専)を繰り上げ卒業し、1943年に海軍飛行予備学生に。「二度と家の敷居をまたぐことはない」と覚悟したという。

 わずか2カ月の基礎教育を終え、三重県の鈴鹿海軍航空隊へ配属。飛行方法や爆撃訓練を受けた。44年5月に艦上爆撃機の偵察搭乗員として配属が決まり、フィリピンへ向かった。

 戦況は既に悪化。丸田さんは、米軍の航空母艦に体当たりする特攻隊員を数多く見送ることになった。ある隊長は前夜、隊員たちに囲まれ、背筋をピンと伸ばしピアノを弾いた。皆が静かに聞き入った。

 予備学生の同期も特攻に向かった。前日、部屋を訪ねると、胸ポケットから娘の写真を取り出し、見せてきた。丸田さんは結婚していることに驚き、幼い娘と妻を残していくつらさを感じた。同期生はポケットに戻し、右手を押し当てた。

 丸田さんは同年12月に千葉県の香取航空基地に移る。今度は自身が「特攻に向け待機せよ」と命じられた。「来るべきものが来た」と感じた。夜になると、特攻に向かった隊員の姿が思い出され、一睡もできないこともあった。1週間後、待機は解かれた。「死を覚悟しても、いざ目の前に迫ると生への執着は捨てられなかった」と正直に思いを語る。

 戦後、炭鉱会社などに勤めた丸田さん。体験をつづり始めたのは約30年前、戦友に勧められたのがきっかけだった。記憶をたどり、歴史を調べ、加筆と修正を繰り返すうちに、150ページ近くに膨らんだ。「対岸から鬼が手招きしている」年齢になったとして、脱稿した。「生きたくても生きられなかった戦友がいた。そのことを若い人たちに知ってもらいたいんです」

=2018/12/08付 西日本新聞朝刊=

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