「地獄だった」 旧満州から引き揚げた86歳 戦中戦後の「語り部」として 開戦の日に思い新た

西日本新聞 筑豊版

 1941年12月8日、旧日本軍は、米国ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争が開戦した。「人と人が殺し合う戦争は愚行、蛮行。二度と繰り返したらいけない」。あの日から77年。旧満州から引き揚げた飯塚市鯰田の広中弘さん(86)はこう訴える。体験を一人でも多くの人に伝えるため、語り部として、活動するつもりだ。

 同市出身の広中さんは、幼い頃、両親と死別し、祖父と暮らしていた。小学4年で祖父に連れられ、おじやおばが住む旧満州のチチハル市に。シベリアに近く、冬は氷点下30度になる極寒の地だったが、スケートなどを楽しんだ。

 ところが-。中学1年になると、戦時色が強まり、下級生はわら人形を竹やりで突き、上級生は爆薬を抱いて敵の戦車に飛び込む訓練に明け暮れた。「中学生が人を殺す訓練をする。狂気の沙汰だが、当時は当たり前だった」

 45年8月15日、玉音放送を聞いた。大人たちが号泣する中、「これからどうなるんだろう」と不安を募らせた。数日後には旧ソ連軍が満州、チチハルに侵入。強奪、女性に対する暴力、殺人が繰り返された。「地獄だった」。広中さんらも機関銃で狙われ、友人3人が亡くなった。常に空腹で、食べ物の夢ばかり見た。

 翌年の夏、帰国の順番が回ってきて、チチハルから約2カ月かけて、引き揚げ船が出航していた葫蘆(ころ)島に到着。船が出航し、船長から「もう、心配はいりません」と言われた時、心から安心した。9月、船は博多に着いた。

 飯塚市へ戻り、16歳ごろから三菱鯰田炭鉱で働いた。20歳ごろ嘉穂東高定時制に入学。早朝からの仕事が終わるのは午後5時。炭じんを洗い落とし、同6時の授業開始に間に合わせた。

 「仕事との両立で、卒業までの4年間は苦しかったが、生きるための原動力となった。定時制には感謝している」。炭鉱閉山後、飯塚市で不動産会社を立ち上げ、同市議を3期務めた。

 今年10月、定時制創立70周年記念式典で講演し、卒業生や在校生に初めて戦争体験を語った。真剣に話を聞く在校生を見て、戦争犠牲者の代弁者として、語り続ける決意をした。

 「話す人や場所は問わない。戦争反対の思いが広がり、平和な世の中をつくってほしい」

=2018/12/08付 西日本新聞朝刊=

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