平和台を創った男 岡部平太伝 プロローグ スポーツに生涯を懸けた反骨の「コーチ」

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 福岡市に「平和台」と呼ばれる場所がある。平和台陸上競技場や、かつての平和台球場は多くの選手を輩出し、名場面の舞台となってきた。創設70周年を迎えたこの「スポーツの聖地」が、1人の男の執念によって創られたことを知る人は少ない。男の名は岡部平太という。糸島市出身の岡部は留学先の米国であらゆるスポーツを学び、選手の育成に生涯をかけた。明治、大正、昭和の激動期を駆け抜けた岡部は、日本で「コーチ」と呼べる最初の人物と呼んでいい。だが、生来の反骨精神ゆえに、その生きざまは波瀾(はらん)万丈だった-。

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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糸島生まれ/GHQから土地奪還

 岡部は1891(明治24)年、糸島半島の芥屋村で生まれた。幼い頃からスポーツ万能で、講道館柔道の創設者、嘉納治五郎に師事して上京。東京高等師範学校(現筑波大)を経て、米国で科学トレーニング理論を習得した。柔剣道の達人で、陸上競技、サッカー、野球、競泳、テニス、バスケットボール、ボクシング、スキー、スケートなどを貪欲に学び、コーチを歴任。日本に初めてアメリカンフットボールを紹介した人物でもある。

◆柔剣道の達人 嘉納治五郎に師事 数多くの競技学ぶ

 平和台との関係は、旧満州(現中国東北部)で体育協会を創設してスポーツの普及活動を進めていた岡部が、1945(昭和20)年の敗戦で郷里に引き揚げたことに始まる。2年後、岡部は福岡市長から「国体を開催したい」と相談され、人脈を駆使して48年の「第3回国体」誘致に成功。大会準備委員長を任せられる。

 問題は会場だった。大空襲を受け、戦禍が残る街には適当な土地がない。岡部が目を付けたのが、福岡城址(じょうし)の福岡連隊跡地(現舞鶴公園)だった。しかし、そこは連合国軍総司令部(GHQ)が接収し、進駐軍の家族用住宅の建設を計画していた。

 岡部はGHQ幹部と交渉を重ね、こう訴えた。

 「もう戦争は終わった。ここをスポーツのピースヒル(平和台)にしたい」

 その熱意に負けたのか、GHQは土地を返却。岡部は自ら設計図を描き、GHQから借りたブルドーザーで突貫工事を進めた。そのかいあって、会場は完成。食うや食わずの時代だったにもかかわらず、国体には2万人が参加して大成功を収めた。

 それだけではない。この時、岡部は連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーに直訴し、国旗掲揚を認めさせている。戦後、公の場に日の丸が翻ったのは初めてのことだった。

 実は「平和台」という名称には、深い意味がある。戦争に反対していた岡部は、スポーツを通じた国際交流に尽力したが、一人息子の平一は特攻隊として沖縄で戦死した。不戦の誓いと息子への鎮魂…。それが命名した岡部の思いだった。

◆五輪選手育成 金栗四三とタッグ ボストンで初優勝

 晩年、岡部は「日本人が世界で勝てる競技」として、マラソンに注目する。今年のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公で、日本人初の五輪マラソン選手、金栗四三と協力。「オリンピックマラソンに優勝する会」を設立して選手を育成した。51年のボストンマラソンでは日本代表監督を務め、初優勝に導いている。

 しかし、大きな功績を残した岡部も、スポーツ界では主流にならなかった。それは、相手が誰であろうと自分が納得しない限り立ち向かっていく、岡部の反骨精神に一因がある。講道館が米国のプロレスラーから対戦を申し込まれた時、「柔道を世界に広める絶好の機会」と受諾した師匠の嘉納に「柔道のアマチュア精神を失ってしまう」と直言。対立して師の元を去ったことで、岡部は歴史の表舞台から遠ざけられてしまった。

 岡部が66(昭和41)年に没して、すでに半世紀。その業績を示す物は、今や平和台の一角にひっそりとたたずむ胸像しかない。岡部なくして平和台はなく、西鉄ライオンズに始まるプロ野球の隆盛もなかったことは間違いない。

 だが、昨今のスポーツ界をめぐる状況は、岡部の理想と相反している。日本の「近代スポーツの父」とも呼ばれる岡部が、頻発する指導者の不祥事を知ったら激怒するに違いない。

 来年、2020年には東京五輪が開催される。スポーツの存在意義を改めて考える糸口として、これから1年かけて岡部の実像に迫ってみたい。

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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