「戦慄を覚える」偶然手にした米機密資料の謎 丸裸にされた戦時中の海軍工廠

西日本新聞

1945年4月に米軍が上空から撮影した川棚町。白線で囲んでいるのが海軍工廠 拡大

1945年4月に米軍が上空から撮影した川棚町。白線で囲んでいるのが海軍工廠

古川恵美さんが米海軍佐世保基地の男性に手渡された文書。KAWATANAやSASEBOの文字が記されている 川棚海軍工廠の建物の一部は今も残っている=川棚町百津郷 1950年に撮影された川棚町中心部。煙突の奥の建物群が旧海軍工廠(川棚町郷土資料館提供)

 「この資料を見てください」。記者に手渡されたのは、航空写真と英語で書かれた2枚の文書。写真には1945年4月11日の日付と「KAWATANA FACTORY」の文字がある。戦時中、川棚町にあった川棚海軍工廠(こうしょう)の写真だ。文書には「U.S. CONFIDENTIAL(米国機密資料)」とある。何を意味する資料なのか-。

 提供してくれたのは、川棚町で戦争遺跡のガイドボランティアをしている古川恵美さん(44)=佐世保市横手町。資料は思いがけない人からもたらされた。

 昨年2月。古川さんは佐世保一帯の歴史を研究する佐世保史談会の例会で、川棚町にあった魚雷発射試験場について講演した。会場は佐世保市立図書館。話し終えると、米海軍佐世保基地に勤めているという米国人男性と通訳の日本人が近づいてきた。

 「資料を差し上げたい」。男性が手にしていたのは、白黒の航空写真と米国機密文書。通訳によると、男性は古川さんに資料を渡すために来たという。

 古川さんは一読して驚いた。「川棚町にスパイがいたのではないかと思ってしまうくらい詳しい」

 上空から撮影していたのは現在のJR川棚駅一帯。川棚海軍工廠の敷地を縁取り、建物に1から54の番号を付けている。文書には番号ごとに説明がある。

 「2.Boiler house」「47.Reported torpedo storage」。2番は「ボイラー室」、47番は「魚雷倉庫と報告」。周辺住民に実態が明かされていなかった工廠が、上空から丸裸にされていたようだ。

    ◇  ◇

 古川さんは友人と翻訳に努めたが、不明な点が残った。そこで、記者が川棚町の戦争遺跡に詳しい県文化振興課の斉藤義朗学芸員に依頼して調べてもらった。すると、同じ写真と文書が国立国会図書館のデジタルコレクションに収められており、インターネットで閲覧可能なことが分かった。

 文書名は「米国戦略爆撃調査団文書 空襲損害評価報告書」。写真とともに英米合同の情報機関「合同攻撃目撃グループ(JTG)」によって作成された。

 国会図書館のウェブサイトを見ると、日本全土、朝鮮半島、中国・満州、台湾を対象とした「機能・建築分析報告書」の文書や航空写真が数多くあり、川棚町の資料もその一部だった。

 斉藤さんは報告書のある言葉に着目した。「aerial torpedoes,Type91,Modification 3」。日本語で「91式航空魚雷3型」。川棚海軍工廠が製造していた魚雷を型式まで、ずばりと指摘している。

 「上空から撮影した建物が何の施設か、米国の専門部署は形などから分析していた。捕虜(日本人)や現地の無線傍受からも情報を得ていた。日本軍は情報戦において、非常に劣勢だったことが分かる」

 川棚町は45年7月31日に空襲を受け、69人が命を落とした。海沿いにあった川棚海軍工廠は空襲から逃れるため、山にトンネルを掘って一部を移した。

 「海軍工廠が空襲に遭わなかったのは米軍がビール工場と間違えたからだ。こういった話を地元の人から聞くが、そのようなことは考えられない。単純に優先度が低かったからだろう」と斉藤さん。米軍は工廠の一部が移転したことも把握していたとみている。

 斉藤さんの見解を伝えると、古川さんは「当時の連合国軍の情報技術に対し、日本軍は特攻という精神力重視の戦法を取った。考え方の違いがはっきり出ている」とうなずいた。

 さらに-。「東京や大阪のような都市だけでなく、川棚町も標的にされていたことを考えると戦慄(せんりつ)を覚える」。偶然手にした資料の重みを実感した。

    ◇  ◇

 資料の謎がもう一つ残っている。米海軍佐世保基地の男性は、どこで入手し、なぜ古川さんに手渡したのか。年齢は30代から40代。あの日、連絡先を聞かなかったため、真意を確かめることはできないでいる。

=2019/01/31付 西日本新聞朝刊=

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