「九州上空の怪飛行機」 編集委員 上別府 保慶

西日本新聞

 西日本新聞が前身の「福岡日日新聞」だった日中戦争の頃。1938(昭和13)年の5月21日付朝刊に、5段抜きの見出しが載った。

 「南九州の上空に怪飛行機現る 熊本、宮崎県上空四千米(メートル)から反戦ビラを散布す」

 記事を要約する。

 「20日午前4時ごろ、熊本、宮崎両県の上空に国籍不明の飛行機1機が現れ、太平洋の方向に消えた。直後に熊本県球磨郡四浦、多良木、黒肥地、宮崎県椎葉の山奥と富島付近で『日本労働者諸君に告ぐ』と題する反戦ビラが多数見つかった。この飛行機は中国機とみられるが、徐州攻略戦の大勝に沸くこの地域では、子供じみた撹乱(かくらん)戦術を笑って人心に動揺はない」

 記事が推測する通り、この飛行機は、中華民国軍の物だった。だが蒋介石の次男、蒋緯國将軍が著書「抗日戦争八年」で述懐するところでは、飛来したのは1機ではなく実は2機の編隊で、米国から供与されたマーチン社製の4人乗り爆撃機B-10Bを使った。中国語で「馬丁(マーチン)式重轟炸機」と呼ばれていた。

 飛行準備には2カ月をかけた。停戦を呼び掛けるガリ版刷りのビラは、大分県出身のプロレタリア作家、鹿地亘(かじわたる)が書いた。鹿地は治安維持法違反で逮捕された後に転向して出獄したが、中国へ渡り、37年の日中開戦を機に国民党の支配地区で「日本人民反戦同盟」を結成していた。

 爆弾の代わりにビラを積んだ2機は、5月19日に漢口(今の武漢市)を出発し、寧波で燃料を補給した後、同日午後11時48分に日本へ飛んだ。蒋緯國は「予定通り、長崎、福岡、久留米、佐賀及(およ)び九州各都市の上空で文告を散布し、かつ軍港と航空基地の状況を偵察した」と語っているが、実際にビラが見つかった地域とは、ずれている。

 しかし片道約900キロの夜間飛行である。レーダーは装備しておらず、磁石と星を見て位置をつかむ航法で真っ暗な洋上を往復する命懸けの冒険飛行だった。この時は20日未明に江西省の飛行場に戻ったが、2度目の飛行ではついに帰還できなかったという。

 この話を中山雅洋著「中国的天空」で知ったアニメの宮崎駿監督は、模型誌に連載した漫画「宮崎駿の雑想ノート」の第6話「九州上空の重轟炸機」で、搭乗員の苦労をしのんだ後にこう結んでいる。

 「それから6年 マーチンの次に日本に来たのは米国のB-29の大群だった。(中略)日本中の主要な都市はすべて炎上し、二発の原爆がとどめをさした。ぼくは4才で焼夷弾(しょういだん)の雨の中を父の手にひかれて逃げまわっていた」

=2019/01/31付 西日本新聞朝刊=

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