【平和台を創った男・青春編2】福岡師範 押しつけ教育に大暴れ

平和台を創った男-近代スポーツの祖・岡部平太 第2部(2)

 岡部平太は1908(明治41)年、17歳で福岡師範学校に進学する。小学校を卒業すると働くのが普通だった時代。教員養成を目的とする師範学校は1県に1校しかなく、成績優秀でないと入学できなかった。

 福岡市の西公園(中央区)にあり、全寮制で4年制。スポーツも盛んで、岡部は持ち前の運動神経を発揮して活躍した。柔道と相撲は一番強く、軟式テニスでは1年からレギュラー。本人も「あらゆるスポーツにおいて私は別格に扱われた」と振り返っている。

 しかし、岡部のある行動から、学校生活は波乱に満ちたものとなる。

 福岡師範では孔子、菅原道真、貝原益軒、スイスの教育家ペスタロッチの4人を理想の人物に掲げていた。学期ごとに記念祭を催しており、生徒は講演を聞き、感想文を書かされる。

 生徒の思想を束縛するような手法に、1年の岡部は「学校は理想の人物を生徒に押しつけるものではない」と批判する文章を提出。舎監長は激怒し、謹慎処分を下した。

 そして3年の夏、再び事件が起きる。それは舎監長の訓示がきっかけだった。「他校では、生徒が手入れをした果実が熟しており、心が洗われた。わが校も中庭にキンカンを植える。大事に手入れをするように」

 しばらくすると、実の熟したキンカンが植えられた。これが岡部の反抗心に火をつけた。

 「一から育てるのならいいが、すでに実がなっている。これをどう手入れしろというのか。偽善教育だ」

 一計を案じた岡部は4年生の剣道部員をけしかけ、中庭での試合を申し込む。相手に打ちかかるふりをしてキンカンの実に襲いかかり、すべての実を切り落としてしまったのだ。

 度重なる反抗的態度とこの事件で、岡部は校長室で退学処分を言い渡された。
「すべもなく黙して居(い)たり わがはたち 校長室の青きカーテン」

 岡部が詠んだ歌から心境が伝わる。その晩、岡部は寄宿舎から脱走。突如として、南極探検隊の隊員を募集するため福岡に来ていた陸軍中尉の白瀬矗(のぶ)に会いに行く。

 白瀬も旺盛な反骨精神の持ち主で、大いに話は合ったものの、結局は探検隊入りを諦めたという。

 行き場を失った岡部は実家に戻り、鬱々(うつうつ)とした日々を送る。そんな時、岡部の将来を切り開くことになる話が舞い込む。

=文中、写真とも敬称略。内容は当時のものです

=2019/02/26付 西日本新聞朝刊=

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