爆弾三勇士の“真相” 編集委員 上別府 保慶

 1964年東京五輪の興奮から年が明けた、65年の1月6日、テレビ東京の番組「私の昭和史」に、元陸軍少将の田中隆吉氏が出演した。

 田中氏は極東国際軍事裁判(東京裁判)で、検察側の証人となり、被告席に座る元上官たちに不利な証言をしたとして、旧軍関係者から「裏切り者」となじられたことで知られる。

 番組のテーマは、32年に日中両軍が激突した第1次上海事変だった。田中氏は「驚異的」とされる記憶力で、次々に秘話を語り、司会の三國一朗氏はあっけにとられた。

 田中氏は開口一番、この上海事変を仕掛けたのは「私です」と言い切った。

 前年の満州事変で日本が各国の批判にさらされていた中、関東軍の板垣征四郎高級参謀から、列国の目を上海にそらせて満州の独立を容易ならしめよ、との電報を受けた。活動費として2万円が届き、田中氏はこれで日中両軍がぶつかるよう謀略を仕組んだという。この額は当時の首相の給料2年1カ月分に当たる。

 さらに話題は、上海へ増派された陸軍工兵大隊(福岡県久留米市)の1等兵3人が、敵陣の鉄条網へ爆弾筒を抱えて突入し、戦死した「爆弾三勇士」の“真相”にも及ぶ。3人のうち1人は佐賀県、2人は長崎県の出身だった。

 「これは、廟行鎮(びょうこうちん)の鉄条網を爆破するために命令した上官がですな、爆薬の導火線の火縄を一メートルにしておけば、あの鉄条網を爆破して安全に帰ることができたんです。それが誤って五〇センチ、すなわち半分にしてしまったんです。それで江下武二(えしたたけじ)、北川丞(きたがわすすむ)、作江伊之助(さくえいのすけ)の三人は無残な死を遂げちゃったんです」

 「事故です。上官の過ちです。彼らは完全に爆破して帰れると思っていたんです」

 田中氏は当時このことは伏せて、3人の功を記者に語った。上海事変を始めから戦っていた海軍陸戦隊にすれば面白くない。田中氏は拳銃と軍刀で脅され釈明文を書いた。脅した海軍将校は後に五・一五事件に加わったという。

 田中氏は東京裁判の後に、短刀で自殺を図るが未遂で回復。78歳まで生きた。この番組に出た時は71歳。「国民諸君に対しては、かくの如(ごと)き上海事変を起こして、まことに衷心(ちゅうしん)相すまんと思っております」と語り終えている。

 「爆弾三勇士」は、本紙を含む新聞が美談としてもてはやし、教科書にも載った。その記憶は戦後、風化していった。この番組は当時、遺族がいる九州には系列局がなく、見られなかった。図書館で「証言・私の昭和史1」(文春文庫)を探せば読める。

=2019/02/28付 西日本新聞朝刊=

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