若津港、近代化遺産残る 大川市・筑後川下流 導流堤、ドライドック… 明治期は博多港しのぐ物流拠点

西日本新聞 筑後版

筑後川昇開橋そばに設置された看板を前に、若津港の歴史を語る本間雄治さん(左端) 拡大

筑後川昇開橋そばに設置された看板を前に、若津港の歴史を語る本間雄治さん(左端)

「並行導流堤」と呼ばれていた筑後川河口の突堤 有明海の干満差を利用したドライドック。1300トン級の船舶まで入渠できた 造船技術を生かし、鉄道車両も製造した深川造船所 若津港の繁栄を今に伝える旧三潴銀行本店

 日本が近代化を果たした明治期、筑後川下流の若津港(大川市)は博多港(福岡市)をしのぐ積み出し港だった。その繁栄を支えた若津港周辺の近代化遺産について記した看板が3月末、筑後川沿いに設置された。設置に協力したNPO法人「大川未来塾」理事本間雄治さん(69)の案内で現地を訪ね、往時に思いをはせた。

 看板は福岡、佐賀、熊本、大分各県の自治体などでつくる一般社団法人北部九州河川利用協会が大川市向島の旧国鉄佐賀線筑後川昇開橋の近くと、柳川市七ツ家のいずれも筑後川沿い2カ所に設けた。昇開橋近くの看板は幅150センチ、高さ90センチで、近代若津港の歴史を紹介している。

 看板のタイトルに「導流堤が支えた筑後川若津港近代化遺産案内」とあるように、最も有名なのはデ・レーケ導流堤だろう。河口に土砂が堆積するのを防ぐため、流れを速める目的でオランダ人土木技師ヨハニス・デ・レーケが総合監修し、1890(明治23)年に完成した。

 幅11メートル、全長約6・5キロの石積み堤防が、当時の姿を今に残す。大川市の観光拠点施設TERRAZZA(テラッツァ)近くには、有明海沿岸を通る有明海沿岸道路建設のため移設された導流堤の一部が展示されている。

 ところが本間さんは「本当の導流堤は別なところにある」と断言する。本間さんとともに筑後川を下ると、柳川市七ツ家付近で川岸から川に伸びる石積みの突堤を見つけた。突堤は福岡県側に2本、佐賀県側に3本あるという。本間さんは過去の文献を調べ、かつてはこれらの突堤こそが「並行導流堤」と呼ばれ、現在導流堤と呼ばれる構造物は「制水工」の名称だったことを突き止めた。

 筑後川はデ・レーケ堤の完成で大型船の航行が可能となり、若津港は河川港として発展する。そのにぎわいの中心が明治中期に佐賀県の実業家によって設立された大川運輸株式会社(後の深川汽船と深川造船所)だ。深川汽船は、若津-長崎-大阪を結ぶ航路を開拓。筑後平野で収穫したコメ、清酒、ござなどを運んだ。

 1896年の若津港の積み出し金額は約970万円と、博多港の約418万円の2倍を超えた。大蔵省が米価を調整する「蔵所」を置いたほか、若津と諸富津(佐賀市)を合わせた「大川口」には九つの金融機関が立ち並び、物流・金融の一大拠点ともなった。

 一方の造船所では若津丸(283トン)、佐賀丸(687トン)などの木造大型船が次々に建造された。有明海の干満差を利用した排水システムのドライドック(船の修理設備)は全長60メートルで、1300トン級船舶の入渠(にゅうきょ)が可能だった。海軍艦船を修理した記録も残る。ドックは現在、筑後川昇開橋温泉敷地内の地下に眠る。

 造船所の職人たちは、船舶だけでなく鉄道車両の製造も手掛けた。1921年の従業員数は751人で、船舶や蒸気機関車、内燃機関などを製造する九州屈指の大工場だった。

 第1次大戦後の不況などで若津港は次第に衰退。数多くいた職人たちは木工業に就いたと、本間さんはみる。大川の主力産業の家具製造業も、ルーツをたどれば若津港に行き着くそうだ。「若津港周辺の近代化遺産は、世界文化遺産の三重津海軍所跡(佐賀市)と比べても引けを取らないほど重要だ。過去を知ることで、未来のまちづくりにつなげてほしい」と本間さんは訴える。

=2019/04/13付 西日本新聞朝刊=