大伴旅人邸跡は3説 「玉石敷きの溝」注目を 大宰府展示館に保全 坂本八幡神社、九歴調査で「違う」

西日本新聞

 新元号「令和」ゆかりの地として、観光客が急増している太宰府市。お目当ての一つが大宰府政庁跡東側にある大宰府展示館だ。序文に「令」と「和」の漢字を使った「梅花の歌」(万葉集)が詠まれた「梅花の宴」の再現ジオラマ前は、観覧者が絶えない。その隣の部屋には、宴を主催した大伴旅人邸跡の可能性のある溝跡も保全されているが、こちらへの注目度はいまひとつだ。

 展示館スタッフによると、観光客の多くは梅花の宴のジオラマを見てから、政庁跡北西にある坂本八幡神社へ向かうという。政府が「令和」を発表した直後、中央メディアなどが「坂本八幡神社は、梅花の宴を主催した大宰帥(だざいのそち)(大宰府長官)・大伴旅人邸跡とされる…」と今も有力説のように報じたためだ。

 戦後間もなくから通説のようになっていた同説を検証するため、九州歴史資料館(九歴)は1986年、現地付近を発掘調査した。結果、祭祀(さいし)用とみられる土製馬形「土馬(どば)」が出たものの、屋敷跡などの遺構は検出されなかった。九歴は「ここは違う」と判断した。

 当時、技師として発掘に当たった赤司善彦・大野城心のふるさと館長は「政庁東側の月山地区に旅人邸はあったのではないか」とする説を新たに打ち出した。根拠の一つが奈良時代の「玉石敷きの溝」跡だった。

 このため赤司さんは「溝があった一角は、大宰帥と同じ身分である、都の三位(さんみ)の貴族宅の敷地面積とほぼ同じ。庭園だった名残ではないか」と指摘。旅人の歌には丘陵を詠んだ作品があり、「屋敷に丘の一部を取り込んだ形跡もうかがえる。梅花の宴などを催した旅人にふさわしい環境」とみる。

 他にも「政庁前面を南下した大路を挟み、権帥(ごんのそち)として左遷された菅原道真公が居たという南館(現・榎社)の東側に帥館があった可能性がある」とする説もある。坂本八幡神社にしてもその真下は発掘されておらず、完全に可能性が消えたわけではない。

 大宰府展示館は「玉石敷き溝遺構と旅人邸跡を絡めた解説パネルなどを検討中。坂本八幡を含む3説の現地を周遊し、ロマンを味わってほしい」としている。

=2019/04/18付 西日本新聞朝刊=

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