平和台を創った男 岡部平太伝 第3部(4)帰国の途 念願の「コーチ」に就任

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 米国留学を終えた岡部平太は1920(大正9)年1月上旬、約2年半ぶりに日本の地を踏んだ。横浜港から直接、東京高等師範学校の寄宿舎に向かったが、部屋はもぬけの殻だった。

 実は岡部の留学中に日本の高等教育は、変革の時を迎えていた。18年12月に原敬内閣が大学令を公布。それまで設置されていた帝国大学5校(東京、京都、東北、九州、北海道)以外にも公立、私立の大学設置が認められ、各地で大学昇格運動が起きた。

 東京高師もその渦中にあった。生徒や教授が昇格運動を繰り広げ、岡部が帰国した日は、ちょうど集会が開かれていたのだ。

 「みんなを驚かせてやろうと帰国を誰にも知らせていなかったが、寄宿舎には誰もおらず、こちらの思惑が外れた」

 岡部はそう振り返っている。

 その日、岡部は嘉納治五郎から「東京高師の体操科講師」と「第一高等学校と東京帝国大学農学部・経済学部の陸上コーチ」への就任を命じられた。この数日後、嘉納は「大学昇格運動も一区切りついた」として、延べ23年間務めた東京高師の校長を辞職する。

 念願のコーチに就任した岡部は、東京高師のグラウンドで、付属中学の4年生有志に、アメリカンフットボールを教えた。米国から持ち帰った3個のボールを使い、ユニホーム代わりに柔道着姿で、ヘッドギアなどの防具はなかった。

 これが日本に初めてアメリカンフットボールが紹介された瞬間だった。付属中学4年生のチームは、5年生チームと第一高等学校陸上運動部員のチームを相手に試合も行った。ただ、岡部が職を去った後は、ボールも破れてしまい、チームは解散する。

 岡部の指導は多岐にわたった。東京帝大と第一高等学校にはバスケットボールチームも作り、強豪の東京YMCAに挑戦した。また、大日本体育協会の蹴球(サッカー)委員長に就任し、東京高師と東京蹴球団などで構成した「関東蹴球団」を結成。日本、中国、フィリピンが参加した21年の第5回極東選手権(中国・上海)に、代表チームとして送り出した。

 どの競技も日本では黎明(れいめい)期にあり、岡部は「まだ若く体力には自信があったので、指導をしていて楽しかった」と書いている。しかし、そんな順調なコーチ生活も、長くは続かなかった。

 (文中、写真とも敬称略)

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

=2019/04/27付 西日本新聞朝刊=

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