【平和台を創った男 留学編5】異種試合 レスラーからの挑戦状

平和台を創った男-近代スポーツの祖・岡部平太 第3部(5)

 帰国した岡部平太は、コーチのほかに嘉納治五郎が会長を務める「大日本体育協会」の規約作りにも携わっていた。米国での経験を生かし、アマチュアスポーツの振興を図るには、協会がどうあるべきかを考えろという嘉納の指示だった。

 ところが、そのアマチュアとプロをめぐる一大事件が起きる。ある日、米国のプロレスラー、アド・サンテルが、興行師を通じて講道館に対戦を申し入れたという記事が新聞に載った。

 サンテルはプロレスのライト級チャンピオン。渡米していた柔道家に勝って「柔道世界チャンピオン」を名乗っており、今度は「本家」の講道館に挑戦状をたたきつけたのだった。

 今でいう異種格闘技戦。世間は騒いでいたが、岡部は冷静にとらえていた。

 「こんな話、嘉納先生が受けるはずがない」

 というのも、試合が成立しないことを岡部は確信していたからだ。嘉納から「柔道の国際化のためにレスリングを研究しろ」と言われた岡部は、留学中にサンフランシスコでプロ道場に1カ月余り入門。練習では何度もプロレスラーと戦った。

 道場に通い続ける中でプロレス興行の“闇”を知り、こう書いている。

 「プロのアリーナの裏側には濁った空気が漂い、酒・女・ギャンブルが、若い自分の身を切られるほどに痛く感ぜられた」

 それでも、正式なスポーツとして何とかプロレスラーと対戦できないか研究した。ペンシルベニア大で、スポーツ生理学の博士、ロバート・マッケンジーに相談。「柔道とレスリングの共通ルールを定めたい」と言うと、ライト級のプロレスラーを紹介された。

 交渉の中で問題になったのが、ファイトマネー。岡部が受け取れば、アマチュア失格となる。逆に興行を生業とするレスラーが、収入のない試合に応じるはずもない。

 そして着衣の問題。岡部は「柔道着での勝負」を要求したが、レスラーは「これだけは着ない」と拒否し、物別れに終わった。

 「柔道は柔道自らの道を進むべきである」という答えを導き出した岡部は、その内容を米国から嘉納に手紙で伝えていた。だから当然、嘉納は対戦を拒否すると思っていたのだった。

 しかし、事態は予期せぬ展開を迎える。年が替わった1921(大正10)年2月、講道館がサンテルとの試合を実施するという記事が新聞に掲載された。

 岡部は、真意を確かめるため嘉納の自宅に向かった。

=文中、写真とも敬称略

=2019/04/28付 西日本新聞朝刊=

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