平和台を創った男 岡部平太伝 第3部(6)切れた絆 夜を徹した議論実らず

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 嘉納治五郎の書斎を訪れた岡部平太は、講道館と米国のプロレスラー、アド・サンテルとの試合の真意を尋ねた。

 「先生、講道館は勝負を受け入れたのですか」

 すると、嘉納の口からは意外な答えが返ってきた。

 「講道館柔道の真価を世界に問う絶好の機会だ。受け入れることにした」

 岡部には信じられなかった。嘉納には米国で経験したことを報告していた。

 「柔道とプロレスラーの戦いは、ルール上において成立はあり得ません。最終的には金銭で決めるしかなく、喜ぶのは興行師です」

 岡部は必死になって試合中止を説いた。しかし、嘉納は1882(明治15)年に創設した講道館の歴史を例に挙げ、岡部の意見を切り捨てた。

 「講道館は他流試合をした苦心があったからこそ、ここまで広まったのだ。サンテル程度の外圧に屈してどうなる、そこまで講道館は弱いのか」

 冷静に話してきた岡部は、この一言で平常心を失い、身を乗り出した。

 「先生は東洋人初の国際オリンピック委員会の委員で、アマチュアリズムは先生ご自身の精神そのものではないんですか。先生が築いてこられた柔道をプロの興行の世界に投げ入れると、講道館そのものまでプロ団体になってしまいます」

 それでも嘉納は頑として首を縦に振らない。書斎の窓から朝日が差し込んでいた。もう半日が過ぎ、始発電車の音が聞こえてきた。

 「これが最後のお願いです。電車で興行師のいる横浜に行かせてください。私が説得します」

 懇願する岡部に、嘉納はきっぱり「だめだ」と言った。その日は東京高等師範学校の卒業式だった。それに気づいた岡部は「これ以上、ここにいては先生に失礼になる。先生の下を去ろう」と決意した。

 徹夜の議論が実らなかった岡部は、妻のステと長女を連れて嘉納邸を出た。

 「私の生涯に於(お)ける一番寂しい記憶の一つである」

 師匠との絆が切れた日のことを岡部はこう振り返っている。これで「講道館を破門された」といううわさが流れたが、岡部は晩年になるまで否定しなかった。

 試合には後日談がある。講道館では他の高段者たちが反対したことで試合を禁じたが、有志たちが対戦。嘉納は「個人を止めることはできない」と静観したものの、試合に出たり関係したりした7人は段位を剥奪された。

=文中、写真とも敬称略

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

=2019/04/29付 西日本新聞朝刊=

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