【平和台を創った男 留学編7】水戸の地 校長と対立し新天地へ

平和台を創った男-近代スポーツの祖・岡部平太 第3部(7)

 師匠の嘉納治五郎に別れを告げた岡部平太は1921(大正10)年4月、茨城県の官立水戸高校で体育講師になった。水戸高校は、岡部の米国留学を支援した実業家の内田信也が多額の寄付をして、この前年に新設。岡部を呼んだのも内田だった。

 実は帰国して間もない頃、岡部は内田から「学校建築に新しい知恵はないか」と相談を受けていた。そこで文部省を訪れ、担当者から設計図を見せてもらうと、約500ヘクタールの広大な敷地の中央に校舎があり、あとは空き地になっている。

 岡部はその場で設計図に赤ペンで手を入れた。校舎を脇に寄せ、中央にはサッカー練習場を内に抱いた400メートルトラック、200メートルの直進コース、野球場、ラグビー場などを書き入れた。念頭にあったのは、シカゴ大のスタッグ・フィールド。目を丸くする担当者に「これでお願いします」と言って立ち去った。

 赴任してみると、設計図通りに建築は進んでおり、校舎と寄宿舎は完成。入学した1、2年生が利用していた。しかし、肝心のグラウンドは手つかずのままだった。

 岡部は自ら行動を起こす。上半身裸になり、生徒と一緒に雑草取りから始め、土を入れ替え、ローラーで地面をならした。完成したのは、日本初の本格的な400メートルトラックだった。

 それからは野球、サッカー、陸上、柔道など、あらゆるスポーツを教えた。特に陸上には力を入れ、「練習だけでは成長がない」と、仙台市の第二高等学校との対抗試合を組んだ。米国で学んだ知識を基に、走るフォームやトレーニング法を指導。まだ3年生がおらず、僅差で敗れたものの、岡部はこう書いている。

 「新設の水戸高校が老雄二高と大接戦をやった報道は全国学生スポーツ界に流れて、当時の陸上界に活気を与えた」

 しかし、校長はこうした岡部を快く思っていなかった。体育について、身体を健康にするための遊戯ぐらいにしか考えていない校長と、スポーツ指導に全力を傾ける岡部との隔たりは大きかった。

 岡部は「校長の教育方針では、自分の在職は無意味だ」と、親友の四角(しかく)誠一(元大阪ガス副社長)に語っている。

 夏に第二高等学校との試合が終わると、岡部は突如として姿を消す。向かった先は急成長を遂げる新天地「満州」(中国東北部)だった。

※文中、写真とも敬称略。

【第3部終わり。岡部の満州時代を描く第4部に続く】

=2019/04/30付 西日本新聞朝刊=

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