「たべるのがおそい」終刊号/片岡義男「窓の外を見てください」

西日本新聞

 平成最後の月は、月刊の四誌(「群像」「新潮」「すばる」「文学界」)に加えて、季刊の「文藝」、隔月刊の「三田文学」、年二回の「たべるのがおそい」の刊行が重なって、はからずも主要な文芸雑誌の揃(そろ)い踏みとなった。しかも「文藝」はリニューアル号、「たべるのがおそい」は終刊号である。ついつい「平成の終わり」と「令和の始まり」に関連づけて考えてしまいそうになるが、もちろん改元と関係があるとは限らない。

 翻訳家、小説家、歌人、アンソロジストなど多面的な顔を持つ西崎憲が編集長を務め、福岡の小出版社である書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)が版元の「たべるのがおそい」は、創刊以来、意欲的な誌面作りに取り組み、二作の芥川賞候補(今村夏子「あひる」と宮内悠介「ディレイ・エフェクト」)を輩出したことで、やや大袈裟(おおげさ)に言えば近年の文芸シーンにおける台風の目のひとつとなった。まだ終刊号から三たび芥川賞候補が出る可能性も残されているが、そうならなくてもこれはすでに画期的なことである。終刊号の特集は「ジュヴナイル-秘密の子供たち」。銀林みのる、飛浩隆、櫻木みわ、岩井俊二、西崎憲の小説/エッセイに加えて、ドイツ文学の研究者/翻訳家の松永美穂が初の小説「物置」を寄せている。特集ではないが、ラテンアメリカ文学を専門とする柳原孝敦の初小説「儀志直始末記」も載っている。松永作は特集に合わせて、少女の瑞々(みずみず)しくも透徹した視点から祖母の想(おも)い出を描いた小品だが、柳原の作品は、十数年前に四十歳で亡くなった友人「伊地知孝行」の遺品から見つかった「儀志直」と題された短編小説と編者による付記という凝った構成のメタフィクションである。高校の時に「ボルヘスになる」と宣言した友人は、その早過ぎる死までの間に、アルゼンチンが生んだ博覧強記の幻想小説家に、どこまで迫り得ていたのか。むろん全てが柳原の創作なのである。まさにボルヘスばりに知略と奇想が張り巡らされた濃密な作品であり、柳原の長編小説を是非読んでみたくなった。

 編集長とアートディレクターが交代して大がかりなリニューアルとなった「文藝」は、今号から特集主義を採るということだ。特集は「天皇・平成・文学」。池澤夏樹と高橋源一郎の対談、東浩紀のエッセイ、温又柔、岡田利規、福永信、飛浩隆、小川哲の短編、そして古谷田奈月の長編一挙掲載「神前酔狂宴」。いかめしい題名だが、明治の軍神を祀(まつ)る神社に併設された結婚式場でアルバイトをするフリーターの話である。軍神も神社も架空のものだが、いかにもなリアリティがあり、ワリの良い仕事だからと軽い気持ちで働き始めた主人公を通して、読者は「天皇制」の「日本」の「社会」と「家族」の不可思議に対峙(たいじ)させられる。力作である。その他、新連載が幾つも始まっており、表紙にあしらわれた「文芸再起動」という惹句(じゃく)に偽りなし、次号以降も期待したい。

 「新潮」5月号がアンケート特集「平成の終焉(しゅうえん)-何が生まれ何が消えたのか」。総勢二十六名の回答に、映画、アート、演劇、クラシック、Jポップ(私が担当した)、建築の「平成ベストテン」。同誌には三島由紀夫の発掘原稿「現代青年論“弱い父親”への反逆」が掲載されているが、こうした「発見」の話題性も少々へたってきた気もする。「すばる」5月号が特集「平成と文学」。高橋源一郎と斎藤美奈子の対談、私が執筆した「私的平成文学クロニクル」、江南亜美子、野中モモの論考。「文学界」5月号の目次に「平成」はなかった。さて、来月は「令和」と銘打たれた特集をどこかがやるだろうか?

 片岡義男「窓の外を見てください」(「群像」5月号)が今月のベストである。短編小説の連作を書こうとしている男が女たちに会いに行く、それがそのまま長編小説になってゆく。「昭和」から「平成」の終わりまで片岡の文章の手触りは、ほとんど変わることがない。だが、ここには何か時代を超えた絶対的な新しさがある。

(佐々木敦 ささき・あつし=批評家)

=2019/04/26付 西日本新聞朝刊=

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