「なんのため」「自由には責任」校則への疑問や賛同…広がる反響

西日本新聞

ツイッターの「#あなたの特命取材班」には、校則についての意見が相次いで寄せられている 拡大

ツイッターの「#あなたの特命取材班」には、校則についての意見が相次いで寄せられている

 シリーズ「校則の?」について、取材班の元にはツイッターやLINE(ライン)などインターネットの会員制交流サイト(SNS)、手紙やファクスを通じて若い世代を中心にさまざまな意見が寄せられている。疑問や憤り、賛同、共感。広がる反響に、身近なルールに対する関心の高さがうかがえる。

憤り、賛同続々 関心高く

 取材班が福岡県の県立高の校則を調べたところ、ほぼ全ての学校で頭髪や服装の規定があり、前提として「高校生らしい」という表現が使われていた。そう報じた本紙記事のツイッターの返信には疑問の声が相次いだ。

 -「高校生らしい」って何? 納得できる回答がほしい。子供たちは疑問に思いながらも学校の枠におさまる努力してるよ

 -なんのための校則か 拘束か

 -ジェンダーフリーが叫ばれてる時代に高校生らしくないという全く客観性も明確な基準もない理由で髪形に制約をかけて、執拗(しつよう)に駄目出しするなんてひどい人権侵害以外の何ものでもないでしょ?

 時代や社会の変化、流行で服装や髪形は変わってくるもの。しかし校則では「いたずらに流行は追わない」と厳しく規制する。

 -ほんの簡単な「個人の自由」に何故反発したいのか。そこまでして画一化したい意図はどこにあるか教えてほしい

 一方、取材班のLINEには校則の意義を訴える声もあった。規定がほとんどなく、髪形や服装が自由な学校に通う高校3年男子は「校則は学校のルール。守れない人は学校を辞めた方がいい」と主張。高校進学で勉強や学習をする権利がある一方、校則を守る義務もあるといい「今の高校生は自分優先の考えが先行し、自己中心的だ」と突き放した。

 「高校生の頃は何で縛られなければならないのかと思っていたが、年齢がいくと『おしゃれ』と『身だしなみ』は違うと思うようになった」と振り返った女性は「自由とは責任が伴うものだ」とつづった。

「なぜ画一化」「自由に責任」

 福岡県では高校新卒で就職する場合、学校が生徒を推薦する形で企業とやりとりすることになっている。

 取材班が行ったアンケートで、ある県立高は「学校が窓口となって企業との間を取り持つ制度である以上、企業側の採用条件にふさわしい社会人らしい評価を気にせざるを得ない」と回答。「求人票を少しでも多く集め、在校生の進路保障の観点からも生徒を企業の求める高校生に近づける必要がある」と厳しい規定の正当性を語り、福岡県の高校教師も「高卒の就職では学力より面接が重視される」と指摘した。

 高卒者を採用する中小企業の男性経営者は「服装や髪に気を取られている人は仕事の能力にも影響する」と校則の効果に一定の理解を示す。ただ「その場だけ服装や髪を取り繕っても、すぐに見抜ける。見た目より人となりだ」と語った。

 紙面では、若者に人気のツーブロックやポニーテールを禁止する学校が多いことも紹介した。「職場ではOKで、高校は違うというのは理由がない。教育の目的は、独裁制下に生きる方法を教えることではない」。ツイッターでは、そんな書き込みもあった。

 

「縛らず自主性育む環境を」内田良・名古屋大大学院准教授(教育社会学)の話 学校側は校則で縛ることで子どもは落ち着くと説明する。1980年代後半から90年代にかけては、厳しい校則により子どもを「拘束」した。校内暴力が激しかった当時と変わって、今の子どもはおとなしくなったといわれる。前提が変わっても考えは80年代のまま。この点が大きな問題だ。

 秩序の乱れについて、細かいルールで縛るから、どんどん違反が見えてきてしまうということも考えてほしい。校則で縛れば形式的には落ち着く。でも今は創造性が高く、自ら考える子どもを育てる時代。校則で縛るのではなく、TPOに合わせて動ける子どもを育てるなど別の在り方を考えていくべきだ。まずは子どもを受け入れることから始めるという考えを大事にしてほしい。

 校則の現状をおかしいと思う先生はたくさんいるがなかなか変わらない。生徒会を通して子どもの同意を得ながら校則を改める手続きを進めるには今の先生たちは多忙すぎる。変えにくい背景には教員の長時間労働の問題もあると思う。

 学校教育を変えられるのは校長でその行動力にかかっている。トップダウンで縛るのではなく、ある程度自由度を持たせ、子どもたち自身でどのような服装や頭髪が適当なのかを考えてもらえばいい。音頭を取っていくことを期待している。

 

「意見ぶつけ合い相互理解を」高橋知己・上越教育大大学院教授(道徳・生徒指導)の話 生徒側が髪形や服装などについて、自分たちの自由にしたいという要求を持つことは、かつてその時代を経験した大人もむげに否定することはできないだろう。俺たちにもそういった時代があったなあ、と。それがいつの間にか大人になり父親、母親となった今、自分の子どもに注意するその口癖は、かつて反抗し否定した自分の親と同じだということにも、恐らく気付いているはずだ。


 子どもは大人に反抗したがることを十分に分かっているにもかかわらず注意してしまう。それはなぜか。きっとこう答えるだろう。「子どものためだから」。そう、大人は子どもたちの服装などの乱れが非行や反社会的な行動につながりかねないと危惧するからルールを厳密に規定する。大人として子どもたちの前面に立つ学校や教師は厳格にルールを守ろうとする。子どもを守るために。しかし、それが子どもたちにとっては窮屈で仕方がない軋轢(あつれき)を生む元がそこにある。


 ルールをゆるがせにすることが子どもたちのためにならないという大人の言い分。自分たちのことは自分たちでするという子どもの言い分。この対立の構図は、年齢や養護者・被養護者であるかどうかなどという関係性を除けば、双方の主張のぶつかり合いというシンプルなものだ。とすると「子どもは大人の言うことを聞いていればいい」という力で圧倒するような解決をするのではなく、冷静に話し合い、意見を主張すると同時に、相手の思いもくみ取るという営為を効果的に介することが問題の解決に必要な気がする。


 要は、校則を変える、変えないという議論の前に、どういう校則にするのか、なぜそうしたいのかを議論する場がこれまでは欠けていて、あたかも「神授」するかのごとく一方向的だったことへの懐疑が現在の校則問題に対する根底にあると思われる。


 なぜルールを策定したいのか。なぜ自由を認めてほしいのか。議論する場を設定し、子ども、親、教師、地域の人たちの意見をぶつけ合う。そうすることは、子どもたちが自主性や自律(自治)性ということを含めた社会性を獲得する意味においても大きな意味を持つのではないか。子どもたちの息苦しさに共感することもあるだろうし、子育てに対する親の愛情、教師の願いに触れることもあるだろう。そんな機会を通じ、きちんとした話し合いによる相互理解を経たルールが策定されたとき、おかしな校則や過剰な服装はなくなっていくものと思われる。自分たちで、自分たちを守り育てるための、自分たちのルールを作ってこその校則なのではないだろうか。


 公開の場で生徒や大人が校則について議論し、子育てや教育について本音で語り合う機会を設定することは、民主主義の根幹をなす社会性の素地を培う体験の場でもある。また世代を超えたコミュニティーづくりの場でもある。それぞれの学校で試みてほしいと思っている。


=2019/05/12付 西日本新聞朝刊=

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