繁二郎、軍艦「千歳」に絵献納なぜ? 社会的要請に応え 久留米とゆかり 異なる画題を淡く

西日本新聞 筑後版

「千歳川景勝図」と同じ構図のスケッチ 拡大

「千歳川景勝図」と同じ構図のスケッチ

「千歳」司令官室の図。左下に「洋画(千歳川)」の記述が見える 水天宮境内にある「軍艦千歳慰霊碑」

 久留米市野中町の市美術館で開催中の企画展「没後50年 坂本繁二郎展」で、坂本繁二郎が海軍へ献納した油彩画「千歳川景勝図」と同じ構図のスケッチを含む計10点の新発見資料の展示が始まった。資料は今回の企画展に合わせて、坂本の遺族が寄贈した。坂本がこの絵を描いた時代背景について、有識者の話や資料でたどった。

 筑後川の古名「千歳川」を艦名とした軍艦「千歳」は1938年、広島県の呉海軍工廠(こうしょう)で建造された。艦内神社には久留米市瀬下町の水天宮の祭神が祭られていたという。

 水天宮境内にある「軍艦千歳慰霊碑」そばに、献納の経緯を記した説明板がある。

 〈筑後地方一帯より、一千九百余名の有志の方々で軍艦千歳会を発足させ(会長石橋徳次郎氏当時久留米市長)その頃珍しかった蓄音機、レコード絵葉書(はがき)及(およ)び軍艦旗など多数献納〉

 石橋徳次郎はブリヂストン創業者石橋正二郎の兄だ。当時、軍艦ゆかりの地の有志が、風景画などを海軍に献納する動きは各地にあったようだ。戦時美術に詳しい千葉工業大の河田明久教授(日本近代美術史)は「軍が絵画制作の予算を計上したとは思えない。住民が郷土会を組織し、献納するのが自然な形だったろう」とみる。制作の依頼について「一国民たる画家が社会的要請を拒むのは現実的ではない。むしろ誠実な者ほど、引き受けた印象がある」と説明する。

 実際、坂本は44年、西日本新聞社も主催した「必勝美術展覧会」の審査委員長を務めている。新聞社も、美術家も例外なく戦時協力の輪の中にいた。

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 資料10点の中には「司令官室掛額位置図」もあった。図によると、「千歳」司令官室の「御真影」の向かって左側、大型卓の横に「洋画(千歳川)」とある。

 国立公文書館アジア歴史資料センターがウェブサイトで公開する「捷(しょう)一号作戦戦闘詳報 軍艦千歳」には44年、千歳がフィリピン沖海戦で沈没したときの様子が刻々と記されている。一部を抜粋する。

 〈10月25日午前9時25分「御真影を補助艦橋に奉還す」同9時30分「傾斜左へ30度」「『総員上へ』を令す」同9時37分「艦影を没す」〉

 御真影の記載はあっても、千歳川景勝図の記述は見当たらない。景勝図は艦とともに沈んだとみられる。

 景勝図と同一構図のスケッチは、筑後川にある江戸期築造の山田堰(ぜき)(朝倉市)付近を描いている。場所が特定できたのは、遺族がまとめた私家版画集に「恵蘇宿(えそのしゅく)」と題する白黒画像が掲載されていたからだ。恵蘇宿は山田堰に近接する地名。画集の「恵蘇宿」は、失われた景勝図と同じ絵の可能性が高い。

 久留米市美術館の中山景子学芸員は「『恵蘇宿』という絵はこれまで着目されてこなかった。坂本は千歳川という画題の依頼を受け、珍しく風景画を描いた。依頼がなければ描くことの無かった絵」と評する。

 当時、坂本は56歳。八女市のアトリエで馬の絵の制作に打ち込む中、どんな思いで筑後川(千歳川)を描いたのか。これ以上の資料はなく、分からない。ただ普段とは異なる画題を普段通り、淡く柔らかな筆致で描いたのだろう。

 「没後50年 坂本繁二郎展」は6月9日まで。久留米市美術館=0942(39)1131。

=2019/05/17付 西日本新聞朝刊=

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