古代海人族の伝統今に 大川市の風浪宮・沖詣り海神祭 干潟で神事、航海の安全祈願

西日本新聞 筑後版

干潟で執り行われた神事 拡大

干潟で執り行われた神事

弓の弦を鳴らして邪気をはらう火清鳴弦御祈祷 神事の後は潮干狩りを楽しんだ わらを束ねた「三段浮かし」にお神酒を注ぐ宮乙名たち 潮が満ちると、干潟は瞬く間に海に戻る

 航海の安全と豊漁を願う大川市酒見の風浪宮の神事「沖詣(まい)り海神(かいじん)祭」が5日、柳川市沖の有明海であった。この日は旧暦4月1日の大潮に当たる。沖詣りに同行し、古代の海人族に思いをはせた。

 風浪宮は朝鮮半島に出兵した神功皇后ゆかりの神社。海の神、船の守り神、船乗り・船大工の神として地元民の尊崇を集めてきた。海神祭は神功皇后に勝運を導いたとされる海神少童命を祭る神事だ。

 海神祭に先立つ4月末の3日間、風浪宮で「火清鳴弦御祈祷(ひきめんごきとう)」があった。宮司ら神職が獣肉断ちをして社務所にこもり、海上の安全や氏子の家内安全を祈った。最終日には「邪気退散」と墨書した的を鏑矢(かぶらや)で射抜く「祈祷の儀」を執り行った。

 海神祭当日は、矛をかたどったという高さ2メートル余りの大御幣(おおごへい)2本が風浪宮本殿から運び出され、舟のへさきに立てられた。神職2人を乗せた舟は午前10時、神社前の筑後川水系、花宗川河口付近から約200メートルさかのぼり、神功皇后を祭った皇后社に「沖詣りに行って参ります」と参拝。舟はその後、2・5キロほど離れた筑後川河口の若津港に到着した。御座船に大御幣を移し、宮総代や漁協関係者を乗せた随伴の4隻とともに同11時すぎ、計約50人で沖合を目指して出港した。

 五色の吹き流しと「磯良丸(いそらまる)」と染め抜いた小旗が飾られた御座船には、神職3人、宮乙名4人ら計11人が乗り込んだ。磯良丸は神功皇后の船団の指揮を執った熟練の航海士の名で、初代の風浪宮宮司になった人物。阿曇(あずみ)史久宮司(65)はその67代目の子孫とされる。

 宮乙名は磯良丸を支えた7人の船頭の子孫で、風浪宮の神事に携わるのは、そうした言い伝えに基づく。

 筑後川に架かる新田大橋を通過すると、船上で宮乙名たちがわらを束ねた「三段浮かし」を作り始めた。直径約50センチのわらの輪に、小さなわらの輪を鏡餅のように積み重ねる。宮乙名の永島幸夫さん(74)は40年以上、海神祭に参加。手慣れた様子でわらをまとめ上げた。

 出来上がった三段浮かしに小豆飯とお神酒を載せ、海神にささげるため海に流した。船は柳川市の沖合約5キロ、百貫灯台近くでいかりを下ろし、干潟が現れるのを待つ。午後1時半すぎ、今まで海だった場所が陸地となった。

 「潮の満ち引きを自在に操ることができたという磯良丸の伝説は、有明海を見た古代人が考え出したのでしょう」と阿曇宮司。船が干潟に着くと手早く祭壇が設けられ、神事が始まった。神職が太鼓を打ち鳴らし、宮司が航海の無事を願う祝詞を奏上(そうじょう)。神事に用いる依代(よりしろ)の木や玉串はサカキではなく、カシノキだ。堅いカシノキは船材に使われており、古代渡海の名残ではないかと想像した。

 神事が済むと、記者が待ちに待った潮干狩り。熊手で干潟を掘り起こすと、次から次にアサリが取れる。約2時間でバケツ1杯分の収穫があった。

 「晴天に恵まれ、最高の思い出となった。いつまでもこの伝統を引き継いでほしい」

 帰りの船の中で、長年海神祭の世話人を務め、今回が最後の参加となった田山登さん(79)=大川市向島=がそう静かに語った。

=2019/05/18付 西日本新聞朝刊=

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