鶴見半島の「シシ垣」を歩く 作物守った石垣延々

西日本新聞 大分・日田玖珠版

人の背丈を軽く超える高さで雑木林の奥へと続くシシ垣。里道跡に立って説明する浜野芳弘さん 拡大

人の背丈を軽く超える高さで雑木林の奥へと続くシシ垣。里道跡に立って説明する浜野芳弘さん

斜面に張り付く段々畑の跡。猫の額のような畑一枚一枚で人々はくわを振るった 山腹を覆う鶴見町丹賀浦の段々畑。シシ垣は、こうした畑をイノシシから守るために築かれた=1964年(肥後四々郎さん提供) 鶴見半島の地図

 佐伯市鶴見半島の尾根伝いに江戸時代の築造とも伝わる長大な石垣が、今も威容をとどめている。畑の作物をイノシシから守ってきた「シシ垣」だ。今は訪れる人もほとんどないが、自然と向き合い糧を得てきた先人の苦闘の跡を雄弁に物語る。地元の人の案内で、この貴重な民俗遺構を歩いた。

 鶴見半島は典型的なリアス海岸地形で、平地が極めて少ない。半農半漁の村人たちは、急斜面に段々畑を開き芋や麦を植えた。「佐伯の殿様、浦でもつ」といわれるほど佐伯藩を潤した漁業。それを支えたのは、自給自足の段々畑だった。

 「昭和30年代まで山の斜面を畑が覆っていました。稜線(りょうせん)を走る石垣は途中で折れて麓へ下り、『コ』の字形に浦(集落)ごと畑を囲んでいたのです。集落のどこからでも見えて万里の長城のようだったといいます」。旧鶴見町職員時代、シシ垣の調査・保存活動に尽力した市議の浜野芳弘さん(67)が説明してくれた。

 訪れた中越浦のシシ垣は林道に沿ってあり、容易に見学できる。車内から道沿いを見上げると樹間に石垣が見え隠れし始めた。

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 車を降りて間近に見るシシ垣は、草に覆われたり木が根を張ったりしていた。厚みは1メートルほど。ほぼ垂直に積まれ、高さは2メートル前後ある。イノシシが越えるのは難しそうだ。石は両手で抱えるほどの物からソフトボール程度まで大きさも形もさまざまで、現地で掘り出せる物という。丁寧な加工の跡はなく積み方も武骨だが頑丈。起伏に沿ってうねうねと続く姿には、獣との苦闘と築造に注がれた労力の程がしのばれる。

 石に足を掛けて乗り越えると、斜面にウバメガシが密生していた。だが谷に向かって連なる段差と、シシ垣同様に積まれた土留めの石垣は、そこが段々畑であったことをはっきり示している。麓に通じる作業道の跡や、肥だめの穴も残っていると浜野さんが教えてくれた。標高約150メートル。風に乗って漁船のエンジン音が麓から上がってきた。

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 県教委の調査報告書(2001年)によると、シシ垣は国内各地に分布しており、県内では佐伯市・旧南海部郡沿岸地域と、国東市に残る。九州では長崎県や宮崎県の各地、福岡市の能古島にもあるという。

 鶴見半島のシシ垣は総延長十数キロ。中越浦を含め大規模なものだけでも5カ所ある。築造年代は諸説あって、はっきりしない。人足に佐伯藩が「弁当料」を支給したとの言い伝えが残ることや、築造指導者の物とされる祠(ほこら)の銘文などから江戸時代末期説が有力だが、佐伯藩の文書史料にシシ垣が一切出てこないため決め手を欠いている。

 戦前まで、シシ垣は地区総出で年2回の補修を欠かさなかった。戦後の高度経済成長とともに、耕作は放棄され石垣は役目を終える。段々畑は樹林に戻りイノシシは“失地回復”を果たした。郵便配達が通ったシシ垣外縁の里道跡には、イノシシの掘り返した跡が累々と残っていた。

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後世に伝える努力続く  「貴重な遺産」児童が学ぶ場に

 鶴見町のシシ垣は平成初期に一部が修復され、観光資源化が期待された。財政上の厳しさもあって維持は難しく、活用策は停滞したが、貴重な文化遺産として後世に伝える努力は続いている。

 地元の松浦小学校は総合学習として6年生が年に1度、シシ垣の見学に出掛ける。後藤孝司教頭(52)は「小さな学校から将来大きな学校に進む子たちにとって、古里を好きになることは大切」と語る。見学後の一言集には、児童たちが祖先の苦労に思いをはせ、心に刻んだ様子が伺える。

 ボランティアとして児童への解説役を務める肥後四々郎(よしろう)さん(76)は言う。「シシ垣は昔の地域の苦労と団結力を示すもの。実物としてだけでなく、今の人の心にも残ってほしい」

 1989-90年度に旧鶴見町は、約2千万円を投じて中越浦のシシ垣を約700メートルにわたって修復し遊歩道や展望施設を整備した。それから約30年。遊歩道はやぶに覆われたりシシ垣が崩落したりして荒れも目立つ。市議の浜野芳弘さんは「一部区域だけでも段々畑とシシ垣をセットで残す取り組みを始めたい」と、地域の宝を残す新たな一歩を踏み出そうとしている。

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