長崎・ポルトガル関係2史料発見 鎖国、海防強化示す

西日本新聞 長崎・佐世保版

1640年に長崎で処刑されたマカオ使節カルバーリョの甥が書いた嘆願書(岡美穂子准教授提供) 拡大

1640年に長崎で処刑されたマカオ使節カルバーリョの甥が書いた嘆願書(岡美穂子准教授提供)

中段に「CidadedeNangasachi」(長崎の町)という文字。長崎の人々は使節の来航に驚いた、と書かれているという 長崎奉行・馬場三郎左衛門利重の書状。長崎警備が佐賀藩から福岡藩に交代したことなどが書かれている

 1639年、幕府が鎖国政策でポルトガルと断交すると、交易再開を求める船が2度にわって長崎にやって来る。それに関する史料が近年、国内外で相次いで見つかった。2点の新史料を通して、当時の関係者の心境や海防が強化される過程を読み解いた。

 幕府は島原・天草一揆でキリスト教への警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。当時、ポルトガルはマカオを拠点に、中国で仕入れた生糸を日本で売って利益を得ていた。1640年、マカオは交易再開を求めて使節団74人を日本に派遣するが、長崎・出島で収監されてしまう。幕府は61人を西坂で斬首、残り13人をマカオに帰国させた。

 新史料は、斬首された大使ゴンサロ・モンテイロ・デ・カルバーリョを殉教者として扱うよう、甥(おい)がローマ教皇庁に求めた約800ページの嘆願書で、マカオ側の動揺がうかがい知れる。東京大の岡美穂子准教授(対外関係史)が2年前、ポルトガル国立公文書館で発見した。カルバーリョの功徳や亡くなるまでの経緯、長崎の人々が使節来航に驚いた様子が記されている。

 後にイエズス会宣教師が残した記録を調べた流通経済大の日埜(ひの)博司教授(ポルトガル文献学)によると、大村藩が使節の監視役を務めた。「長崎の人々は利害関係や親近感があり、幕府が配慮したのでは」と日埜教授。過去に来日歴があるカルバーリョらマカオの人々は、日本の、長崎の激変に衝撃を受けたであろう。岡准教授は「この使節に関する史料は少なく、新史料は当時の様子を知る手掛かりになる」と話す。

   □    □

 長崎交易が途絶えてマカオが衰退すると、1647年、再びポルトガル船が長崎に来航する。7年前の来航以来、福岡藩と佐賀藩が交代で長崎港を警備していたが、さらに九州諸藩から計約5万人が動員され、船を追い返したという。

 もう一つの新史料は、1647年の来航の約1カ月前に、長崎奉行の馬場三郎左衛門利重が熊本藩家老にあてた書状。長崎市長崎学研究所が2年前、熊本市の古書店で購入した。馬場は、カルバーリョらの来航時も長崎奉行だった人物だ。

 馬場はこの書状で、藩主の細川光尚が江戸で将軍と面会したことに対する祝辞や、長崎警備の担当が佐賀藩から福岡藩に代わったことを報告している。何げないやりとりではあるが、「幕府官僚の長崎奉行と熊本藩との親密さが読み取れる」と同研究所の藤本健太郎学芸員(日本近世史)は言う。長崎奉行がこうした関係性を九州諸藩と築いていたからこそ、5万人を動員することができたのだ。 

PR

最新記事

PR

注目のテーマ