その「笑い」に励まされ 田代 芳樹

西日本新聞 オピニオン面

 「博多淡海」と聞いても、今の若い人たちには、ぴんとこないかもしれない。

 博多にわか師だった初代に始まり、二代目は、おばあさんに扮(ふん)して正座の姿勢からぴょーんと跳び上がる「跳び上がり婆(ばあ)さん」の芸で有名な喜劇役者だった。

 幼い頃、大分県別府市の芝居小屋で二代目の跳び上がり芸を見た。演者が男性とは知らず「すごいおばあちゃんだ」と感心した記憶がある。

 三代目が、先日68歳で亡くなった元吉本新喜劇座長の木村進さんだ。40年以上も前、関西で暮らし始めた学生時代に、テレビで吉本新喜劇を見て木村さんを知った。

 「親の七光」と言われるのを嫌った木村さんは、身元を隠して吉本興業に入った。

 それでも血は争えない。得意の「お婆さん芸」をはじめ父親譲りの芸達者ぶりを遺憾なく発揮し、23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった。ツッコミ役も二枚目もできるまれな存在で、当時は関西随一の人気喜劇役者だった。

 人情話に笑いを交えた松竹新喜劇と違い、吉本はギャグ中心で底抜けに面白かった。テレビだけでは飽き足らず劇場にも通った。初めての土地での独り暮らし。博多なまりが残る関西弁の木村さんの「笑い」に随分と励まされた。

 1987年に三代目博多淡海を襲名した翌88年、木村さんは、故郷・福岡市での凱旋(がいせん)公演後に脳内出血で倒れた。一時は「再起不能」と言われながら、90年に奇跡の復活を果たす。復帰の舞台は、倒れる直前まで立っていた博多温泉劇場だった。

 そんなタイミングに、インタビュー取材をする機会を得て、夢中で話を聞いた。

 1年半近く入院やリハビリ療養生活を送った。まひした左半身の神経は思うように回復せず苦しい日々が続いた。追い打ちをかけるように、吉本興業との契約も切れた。一番苦しい時、知人の劇場主から「博多の舞台に役者人生を懸けてみないか」と復帰を誘われたという。

 二代目とも縁があった上方演芸の第一人者、藤山寛美さんが亡くなった直後の時期。「笑いの芸を受け継がなくては」と、自らを奮い立たせていた姿が忘れられない。

 吉本所属の漫才コンビ、博多華丸・大吉さんはこの年に福岡でデビューし、木村さんの奮闘も目の当たりにした。鶴屋華丸・亀屋大吉として活動していた2人は、木村さんと同じ屋号の「博多」を名乗り始めてから全国的な人気者になった。後輩たちの活躍に木村さんも泉下で目を細めていることだろう。

 (デジタル編集チーム)

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