石倉真帆「そこどけあほが通るさかい」/古市憲寿「百の夜は跳ねて」

西日本新聞

 第32回三島由紀夫賞は、三国美千子「いかれころ」(「新潮」2018年11月号)に決まった。この作品については初出時に取り上げたので詳しくは触れないが、昭和五十八年(一九八三年)の大阪、河内を舞台に、長年農業を営む旧家の四歳の娘の視点から、家族や親類の悲喜こもごもの挿話が瑞々しい筆致で語られる。この作品は新潮新人賞受賞作、つまりデビュー作である。三島賞を新人賞受賞作が貰ったのは、第24回の今村夏子の太宰治賞『こちらあみ子』以来であり、候補になったことも二〇一〇年代に入ってからだと、小山田浩子『工場』(「新潮」)、上田岳弘『太陽』(「新潮」)、町屋良平『青が破れる』(「文藝」)の三作しかない(三島賞は単行本単位でも候補になるので厳密に言うと新人賞受賞作とイコールではないものもある)。

 芥川賞に目を向けると、二〇一七年に第157回が沼田真佑「影裏」(「文學界」)、第158回が石井遊佳「百年泥」(「新潮」)と若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」(「文藝」)の同時受賞と、新人賞受賞作のみで占められたことがある。毎回ではないが候補作に新人賞受賞作が含まれていることも三島賞よりずっと多い(芥川賞は「新人に与えられる賞」なので当然とも言えるが)。全ての文芸誌は新人賞を設けているので、芥川賞候補に「新人賞枠」で誰が入るだろうと毎回推測してみるのだが、一本入れるなら「いかれころ」だろうと思っていたら前回は新人賞受賞作はひとつも候補にならなかった。文学賞の予想はむつかしい。前にも書いたことがあるが、私は基本的に新人賞受賞作をそのまま芥川賞に選ぶことは好ましくないと思っている。せめて二作目を読んでからでないと、その作家に何が書けるのかを見極められないのではないかと思うし、当の作家自身にもあまり良い結果を生まないような気がするからだ。しばらくするとまた芥川賞の季節がやってくるが、次回は候補に新人賞は含まれているだろうか。

 群像新人文学賞受賞作の石倉真帆「そこどけあほが通るさかい」(「群像」6月号)は、幾つかの点で「いかれころ」と共通する要素を持った作品である。舞台はおそらく関西、三つの名字の家ばかりがある「ムラ」で、おそろしく性格の捻(ねじ)曲がった祖母=「婆」と同居する家族のぎりぎりの姿が、娘=「うち」の視点から描かれる。「うち」が十九歳の時に「婆」は亡くなったことが冒頭で語られ、回想へと入っていく。嫁と孫たちを日々口汚く罵(ののし)る「婆」と、一緒になって「うち」の家族を詰(なじ)りながらも「婆」を引き取ろうとはしない親戚の醜さはすさまじく、無口だが優秀な頭脳を持った「お兄」も、勉強が出来ず将来何をしたらいいのかもわからない「うち」も、長きにわたって姑(しゅうとめ)の悪口雑言を耐え忍んできた「お母ちゃん」も、やがて感情を爆発させる。方言で語られる「うち」の一人称は素朴で読みやすく、そのせいで却(かえ)って起きていることの酷(ひど)さが際立つ。描写にしても構成にしても、もう少し工夫があってもいいような気もするが、新人賞らしい熱量を持った作品である。

 古市憲寿「百の夜は跳ねて」(「新潮」6月号)は、物議を醸した前作「平成くん、さようなら」とは打って変わって、有名大学を卒業しながら就職活動に失敗し、ひょんなことからビルのガラス清掃の会社で働くようになった「僕」が、高層マンションの広大な部屋に独居する大金持ちの老婆に依頼され、無数の窓の向こう側に広がる他人たちの生活を盗撮する、という物語である。仕事に就いてまもなく職場の先輩が事故で命を落とした。「僕」には今も彼の声が耳元で聞こえることがある。老婆のマンションには大小沢山(たくさん)の箱が置かれている。彼女には彼女の物語があるようだ。「僕」は老婆と親しくなっていくとともに、自分自身を新たな視線で見るようになっていく。結末がやや甘い気もするが、この極めて現在形の叙情は魅力的である。力作だと思う。

(佐々木敦 ささき・あつし=批評家)

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