「天安門」学生の亡命支え 事件後香港活動家ら奔走 「蛇頭」と密航協力 隠れ家用意 民主化求め「闘い続ける」

西日本新聞 国際面

 中国政府が学生らの民主化運動を武力弾圧した1989年の天安門事件から4日で30年。事件後、多くの学生や知識人が中国当局の追及をかいくぐって海外へ逃れたが、その背後には香港の民主活動家や密航組織の手助けがあった。“民主化の灯”を消すまいと支援に奔走した当時の関係者は今も、締め付けを強める中国政府と闘い続けている。 (香港で川原田健雄)

 「軍が来る! 俺たちが体で止めるから早く逃げろ」。事件前日の89年6月3日深夜。デモ参加者の激励のため北京の天安門広場を訪れていた香港の労組幹部、李卓人さん(62)は学生に促され、急いで広場を離れた。遠くから乾いた銃声が聞こえた。ホテルに戻った4日未明、装甲車が市街地に進行。銃撃で血だらけになった若者が担架で運ばれていく。朝になって病院を訪れると、10を超える遺体が床に転がっていた。

 97年に中国返還を控えた香港市民にとって、中国の民主化運動は自分たちの未来を占う試金石だった。89年5月には、民主化を支援するために誕生した「香港市民愛国民主運動支援連合会」(支連会)の呼び掛けで支援金2千万香港ドル(現在の価値で約2億8千万円)が香港市民から寄せられた。しかし「中国が民主化するかもしれないという期待は、一晩で大きな失望に変わった」と李卓人さんは声を落とす。

 香港で武力弾圧のテレビ中継を見ていた牧師の朱耀明さん(75)は「自分に一体何ができるか」と自問していた。数日後、中国当局は学生リーダーら21人を指名手配。香港へ密航してくる知識人も現れ始めた。朱さんは逃亡の手助けをできないか、所属する支連会の仲間と協議。非合法の密航には組織としては関与できないため、有志が個人の立場で救出に乗り出した。後に「黄雀(こうじゃく)行動」と呼ばれる香港経由の海外脱出作戦の始まりだった。

 まず必要なのは亡命先の確保だった。朱さんに頼まれた支連会副主席(当時)の李柱銘さん(80)は、香港にある各国領事館に受け入れを働き掛けた。しかし、最初に依頼した米国総領事館の職員は「受け入れられるのは知名度の高い学生リーダーだけ。他の人は申し訳ない」と冷たかった。

 「助けたいのは1人や2人じゃない」。憤って席を立った李柱銘さんはすぐにフランス総領事館と交渉。面会した副領事から二つ返事で賛同を取り付けた。フランス側は学生の偽名旅券を準備し、香港政府も見て見ぬふりをしたという。

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 最大の難関は中国から当時英国領だった香港への逃亡。中国当局の警備を突破するのに、重要な役割を担ったのが密入国をあっせんする国際犯罪組織「蛇頭」だった。「黄雀行動の協力者には闇社会に顔の利く実業家もいた」。雑誌記者で黄雀行動にも関わった劉達文さん(68)は明かす。

 蛇頭は高速ボートで警備艇を振り切ったり、漁民に紛れ込ませて学生を運んだり、あらゆる手段で国境を超えた。蛇頭への報酬は支連会の募金で賄った。

 しかし、次第に当局の警備は厳格化。深〓(土ヘンに川)側の地元漁船が漁に出られないほど警戒が厳しい時期もあった。武漢大の学生2人は89年のある朝、漁船で香港を目指したが、深〓(土ヘンに川)湾の真ん中で警備艇に見つかった。慌てた蛇頭から海に飛び込むよう命じられ、2人は波の高い海で約6時間漂流。警備艇がいなくなった夕方、ようやく蛇頭に救出されたが「おぼれる寸前だった」(劉さん)という。

 「実は中国警察の中にも一時、協力者がいた」と朱さんは打ち明ける。通常の警備艇より速い最新型のボートをひそかに貸してくれたこともあった。警察内で追及の手が及ぶと、協力者10人がチームごと香港に逃れた。「彼らの協力がなかったら“地下ルート”はできなかっただろう」

 黄雀行動によって中国を脱出した学生リーダーは89年だけで約100人。事件当時、海外メディアに取り上げられ国際的に知名度の高かったウアルカイシさんや柴玲さんも含まれる。費用は1500万香港ドルに達した。

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 失敗もあった。89年10月、「学生リーダーが中国国内のあるホテルに隠れている」という情報を基に、黄雀行動の関係者2人が救出に向かった。しかしホテルの部屋に学生はおらず、中国当局が待ち伏せしていた。「公安のわなだった」と朱さんは悔やむ。

 中国政府は支連会を「反革命団体」と批判。「香港にいても中国のスパイに常に尾行されていた」と支連会メンバーで元香港立法会(議会)議員の李永達さん(63)は振り返る。劉さんは電話も盗聴されていたため、香港へ逃げてきた学生に待ち合わせ場所を指定した上で「新聞を持った男に付いて行くように」と目印だけ伝えて安全な場所へ誘導した。バスを乗り継ぎ尾行をまいたこともあった。

 著名なリーダーの救出が一段落すると、自力で香港まで逃げてきた一般学生の亡命希望者が増加した。受け入れ国はフランス以外にカナダや米国などに拡大したが、とても追いつかない。このため支連会は香港内に複数の隠れ家を用意。アパートの1室に10人が住むこともあった。亡命先が決まらない学生には数年にわたって生活支援を続けた。

 「フランスやカナダが受け入れると伝えても、米国じゃないと嫌だという学生が何人もいた。渡仏後に自由に米国へ行けると言っても信じない。中国しか知らず、自由とはどんなものか理解できなかったのだろう」と朱さんは話す。黄雀行動は香港が返還された97年まで続き、計約400人が香港経由で海外へ渡った。

 朱さんは昨年、フランスを訪れ、最初に学生の受け入れに応じてくれた当時の在香港副領事と再会した。「あの時の決断は上司の許可を得ていたのか」。長年抱いてきた疑問をぶつけると、相手は冗談めかして答えた。「あなたはトイレへ行くのに誰かの許可を得ますか。それと同じ、当たり前のことをしただけです」。目の前の命を救うのに許可はいらない、手を差し伸べるだけ‐。柔和な表情に強い思いがにじんだ。

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 30年前、中国の民主化運動を支援した香港は今、中国政府の締め付けに苦しんでいる。

 香港は97年の返還後も50年間は高度な自治を認める「一国二制度」が続く約束だが、香港政府トップの行政長官選挙には事実上、親中派しか立候補できないよう中国政府が制限。中国に批判的な書籍を扱う書店関係者が拘束されるなど、言論の自由や司法の独立といった価値観も揺らいでいる。

 今夏には中国への容疑者引き渡しを可能とする「逃亡犯条例」改正案が可決される見通し。香港政府は「政治犯は対象外」とするが、黄雀行動の関係者も対象となる恐れは消えない。朱さんは「年老いた私はともかく、他の中心メンバーは今も危ない。名前は明かせない」と懸念する。

 朱さんは2014年の大規模民主化デモ「雨傘運動」で香港中心街の占拠を提唱したとして、公衆妨害共謀罪などに問われ、今年4月に執行猶予付きの有罪判決を受けた。それでも中国政府には抗し続ける覚悟だ。「強権政治が永久に続かないことは歴史が証明している。希望は闘うものだけが手にできる」

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