フォーク編<423>村下孝蔵(5)

西日本新聞 夕刊

阿蘇の草原をバックに 拡大

阿蘇の草原をバックに

 熊本市内の中学校から地元の鎮西高校へ進学した原義晶(67)=大阪府豊中市=は、水泳部で村下孝蔵と一緒になった。原は背泳で、村下はクロールから平泳ぎの選手になった。原は言った。

 「村下は100メートル、200メートルのどちらかで九州大会に出場したと記憶しています」

 当時は屋外のプールで、夏場が練習のシーズンだった。秋からはプール外での体力強化練習が待っていた。

 「シーズンのときはクタクタで、終わったら疲れて眠るだけでした。村下はまじめな努力家でした」

 努力家、というのは水泳だけではない。ギターもそうだった。高校2年の時、原の自宅に村下が半年間、下宿したことがあった。オフシーズンのときは毎日のようにギターを弾いた。

 「左手の指が弦を押さえすぎて血が出ていることがよくありました」

 原が絆創膏(ばんそうこう)を用意すると、村下は言った。

 「これでは弦にひっかかる。滑る粘着テープの方がいい」

 村下はテープを指に巻いて練習をやめることはなかった。

 「村下の指は指紋が擦り切れていました。すごいギターへの情熱でした」

 原はドラムを担当し、村下と名前のないバンドを組んでいた。ある日、熊本市内でバンド合戦という大会があり、2人は観(み)に行った。あるバンドの演奏のときの村下の一言を、原は覚えている。

 「今、サイドギターは半音違った」

    ×   ×

 村下と原が初めて「ギャラ」を貰(もら)うのは高2の時だ。熊本県・阿蘇に移住していた実家近くにあったレコード店「スズヤ」の誘いだった。店の中垣明美がレコードコンサートのゲストとして呼んだ。

 「ベンチャーズの曲など10曲くらい演奏して確か5千円でしたね」

 村下は「3千円」と語っているが、プロ扱いされたことがうれしかった。

 「将来、ミュージシャンになろうかな」

 原は村下からこう聞いたことがある。ただ、原はだれにでもある青春の夢語りと思う一方、ギターの上手(うま)さなどから「もしかしたら」との考えも一瞬、よぎった。

 「村下は当時からオリジナル曲を作っていました。ロックというより物静かな曲でした。ノートに詞とコードを書いていました」

 原は関西の体育大学に進み、村下は実業団から水泳選手でスカウトされた。東京オリンピックから7年後の1971年のことだ。 =敬称略

 (田代俊一郎)

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