元闘士、愚直に50年 フリースクール運営・進藤輝幸さん ワタシペディア「私」辞典~全共闘ダイアリー (1)

西日本新聞 一面社会面

 社会の矛盾と向き合い、あらがった60年代末の学生運動から半世紀が過ぎた。運動の渦中に身を置いた全共闘世代の若者はどんな人生を経て、今という時代をどう見詰めているのか。そんな先人の姿を、行動する現代の若者はどう受け止めるのか。一人一人の「私」の「ダイアリー」をめくる。

「損得より納得」貫く

 陽光が差す窓辺で、女の子が夢中で漫画を読んでいる。佐賀県唐津市にある3階建てのビル。ここで進藤輝幸さん(69)はフリースクールを営む。女児は学校を休みがちで、週2回は顔を見せる。特に勉強は教えないが、「不登校の子には、ほっとする時間がいるんです」。優しいまなざしに、かつて学生運動の闘士だった面影はない。

 進藤さんがファイルから赤茶けた紙を取り出した。わら半紙にびっしり書き込まれた文字。一部は薄く消えかかっている。文章にはどこか青い幼さも感じる。

 〈僕らの「学生」という存在はなにか? 学問とはなにか?〉〈僕らはファントム墜落等を経る中で、「本当の勉強」を求めた〉

 「ガリ版で100枚以上刷って、大学の構内で配りました」

 1969年。激化するベトナム戦争や大学運営の在り方を巡り、各地で烈火のごとく大学紛争が広がった。前年、大学構内に米軍機ファントムが墜落した九州大でも、学生が教室のバリケード封鎖や授業ストライキを繰り返した。あの季節、二十歳の九大生だった進藤さんもデモやストライキに参加した。

 60年代末、大学への進学率が1割強だった全共闘の時代。東京大の学生を中心に、将来の社会的地位を約束された自身の立場を「自己否定」する考えが広まった。あれから50年。進藤さんは自らをごまかさず、愚直に「自己否定」を重ね、生きてきた。

教諭辞め、悩む児童支え

 進藤輝幸さん(69)の原点は、九州大入学後に携わったセツルメント(地域生活支援)だった。被差別地域に入り、ボランティアで勉強を教える中、生徒に「あんたたちとおれたちは身分が違う」と言われた。「どんなに学歴差別に反対しても、自分はその恩恵を受ける加害者の側じゃないか」。自らを疑いながら、学生運動に身を投じた。

 1969年秋、福岡市・六本松の九大教養部。ストが解除され、授業が約半年ぶりに始まった。「何で授業を再開するのか!」。講義室に響く怒鳴り声。進藤さんは再開に納得できず、ガリ版刷りのリポートを配り、講義室に単身乗り込んだ。「大学の在り方を無視して、学問だけすればいいのか」。教授との押し問答は数十分続いた。他の学生は皆、押し黙ったままだった。

 やがて政治の季節はしぼんでいく。自問の末、進藤さんは仕送りを断ち休学し、2年後に中退した。

 アルバイト先のガソリンスタンドに就職したころ、父親を交通事故で亡くした。どう生きるべきか考えた。「人が変わらないと社会は変わらない。人を変える仕事に就きたい」。教員免許を取るため九大に再入学し、30歳を目前に中学校の社会科教諭となった。

 授業の充実だけでなく、生徒と共に良いクラスをつくろうと週1~2回、学級通信を発行した。生徒が荒れた時代もあったが、体罰根絶には特にこだわった。

 だが50歳を迎えた秋、女子生徒の態度にカッとなり、弁当箱で頭をたたいてしまった。頭にヘアピンが刺さり、1針縫うけがをさせた。「体罰は暴力と批判していたのに…。余裕をなくして、焼きが回った」

 学級通信に謝罪文を書いた。それをきっかけの一つとして、早期退職した。多忙のあまり生徒と向き合えなかった反省から、古里の佐賀県唐津市に開いたフリースクール。教育者としての再出発だった。

   ◇   ◇

 いま、不登校の児童を支える傍ら、近くにある玄海原発の反対運動も続ける。平日朝の街頭で、のぼりを手につじ立ちを始めて2年8カ月。累計550回に達する。

 不正入試、政治家の失言、安全神話が招いた原発事故…。近年、大学も政治も企業も不祥事が明るみに出るたび、責任逃れに終始し、うやむやに幕引きするケースが目につく。

 来し方を振り返った進藤さんは「結局、要領が悪かったんでしょうけどね」と照れ笑いし、こう付け加えた。「人生の岐路に立ったとき、損か得かより、納得できるかどうかを基準にしてきた。それが、私のささやかな誇りです」

九州の大学にも飛び火

 全共闘運動は1968~69年、九州各地の大学にも飛び火していった。それぞれの大学史に、その概要が記されている。九州大では68年6月、米軍機ファントムが建設中の電算機センターに墜落したことで、反戦闘争は加速した。市民も巻き込み、米軍板付基地(現福岡空港)の撤去運動が発生。学生はファントムの周囲にバリケードを張り、反基地の象徴として機体引き下ろしに反発した。

 熊本大では68年末、生協食堂の定食費値上げを巡って、授業ストライキや本部封鎖など半年あまりの紛争が続いた。大分大では69年、学生会館や学生寮の管理を巡って大学側と対立し、学生が建物を占拠した。

 紛争は私立大でも起きた。西南学院大では68年、学費値上げ反対や米原子力空母エンタープライズの佐世保港寄港阻止の闘争が盛り上がり、学生が院長室・学長室を封鎖。福岡大では69年4月の入学式当日、口元にタオルをまき、ヘルメットをかぶった「ゲバスタイル」が出現した。

全共闘 党派超え連帯

 大学の学費値上げや管理運営体制、ベトナム戦争などに反発した学生が1960年代後半、バリケード封鎖や授業のストライキを展開した。大学側が機動隊導入などの強硬措置を繰り返すと、学生たちはセクト(党派)の枠組みを超えた学生組織「全学共闘会議」(全共闘)を結成して連帯し、紛争は全国的に波及した。68年度には67大学、69年度には127大学で紛争が発生している。

 69年8月には紛争収拾に向け、大学の休校や廃校を可能にする「大学の運営に関する臨時措置法」(大学立法)が施行された。一部の過激派学生が大学内外で暴力行為を繰り返したこともあり、紛争は下火になっていった。

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