「革命」の種火 今も 活動家・秋山勝行さん ワタシペディア「私」辞典~全共闘ダイアリー (2)

西日本新聞 社会面

 平成が暮れつつあった4月28日。大型連休の人出でにぎわう福岡・天神に拡声器からがなり声が響いた。

 「日本のどこにも基地はいらない」「自衛の名前で戦争するなー」

 67年前のこの日、サンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄は日本の施政権から切り離された。沖縄にとって「屈辱」とされる節目に、市民グループの約30人が米軍基地撤去を求めデモ行進した。

 珍しそうにスマートフォンを向ける通行人、ふざけて「そうだ!」と手を上げる若者…。約1時間のアピールで、どこまで関心が深まったか。デモの前方を歩く秋山勝行さん(77)が黒縁眼鏡の奥を光らせた。「いまだにこんな訴えをしないといけないのか。あの日から何も変わっていない」

 全共闘運動が盛んだった「あの日」。横浜国立大生だった秋山さんは激しさを極めた闘争を率いたさなか、ある青年に出会った。

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 ベトナム戦争が泥沼化していた1967年10月。当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を控え、全国の学生が蜂起した。「戦地の激励や戦争協力につながる」と警戒した学生はヘルメットと角材で武装し、出国を実力阻止すべく羽田空港周辺に結集した。いわゆる羽田闘争である。

 三派系全学連の委員長として、秋山さんは学生を束ねた。空港につながる弁天橋では、機動隊員約400人が待機。装甲車を並べ、放水や催涙ガスで学生を制した。数で上回った学生は声を上げながら進んだ。乱闘で学生1人が命を落とし、数百人が負傷した。

 逮捕されたのは秋山さんら58人。その1人、大きな目鼻にがっしりした体の青年が秋山さんに漏らした。「本土の政府に反対すれば、沖縄に帰されるかもしれない」。青年は沖縄出身。琉球政府が九州大に国費留学させた学生だった。

 日本政府と琉球政府。二重に処分されるリスクがあっても、彼は沖縄の怒りを背負い、闘った-。秋山さんは、自らの覚悟を問われた思いだった。

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 あれから半世紀。中核派の常任活動家として、富を平等分配する社会主義経済への転換を目指す秋山さんは日々、市民団体の学習会やデモに参加し、合同労組幹部として相談も受ける。

 住まいは福岡市内にある中核派組織の事務所。組織からわずかに支給される活動費が収入源だ。2年前までは市営駐輪場のアルバイトを5年間続けた。活動に伴う逮捕歴は11回。妻とは別れた。娘からは「あまり連絡しないで」と敬遠され、孫にも会えない。人生を懸ける「革命」の実現は道半ばだが「まだ目的は達成されていない。私は夢を持って生きている」と前を向く。非現実的で浮世離れしている、と世間からさげすまれても。

 フランスでは生活に困窮する大衆がデモで政権に抗議する「黄色いベスト運動」が続く。翻って日本。東日本大震災後に起きた官邸前デモは縮小し、往時のような闘争は遠ざかった。今回のトランプ米大統領来日における反対派の活動も、大衆を巻き込むには程遠かった。

 貧困、格差、低成長…。後ろ向きな言葉で形容される時代の変わり目に思う。「不満は蓄積している。社会が行き詰まれば、大衆は必ず立ち上がる。それまで種火をともし続けるのが、私の使命です」

▽三派系全学連 過激な運動

 学生運動に携わった学生活動家たちは、政治思想や運動方針の違いにより、さまざまな組織やセクト(党派)に所属していた。このうち中核派、社学同諸派、社青同解放派の学生は1966年12月、三派系全学連を結成。ヘルメットや角材で武装して、街頭で過激な運動を繰り広げた。

 67年10月、首相のベトナム訪問阻止を掲げた「羽田闘争」では機動隊と衝突。68年1月には、米原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保市に寄港することに反対した「エンプラ闘争」で労働組合員らと共闘し、延べ約5万4000人が集結した。

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