親泣かせた苦い記憶 日本料理店主・白川勉さん ワタシペディア「私」辞典~全共闘ダイアリー (5)

西日本新聞 社会面

「学生運動でずいぶん親を泣かせました」と振り返る白川勉さん=5月30日、山口県下関市 拡大

「学生運動でずいぶん親を泣かせました」と振り返る白川勉さん=5月30日、山口県下関市

 朝晩の冷え込みが日ごとに厳しくなる季節だった。

 1969年秋。福岡工業大生だった白川勉さん(70)は、福岡拘置所で家族と対面した。面会室のガラス越しに、無言のまま見詰めてくる父。その隣で涙を流す兄。みじめな姿を見たくないのか、母は来なかった。それでも、寒くないようにと気遣ってくれたのだろう。暖かい羽根布団の差し入れが届いた。

 面会はほんの数分。会話はほとんどなかった。思い返すのは、日頃「おまえを何のために大学に行かせたのか」と嘆いていた父の言葉だ。

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 69年8月。ベトナム反戦を掲げる市民団体「ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)」の集会に参加した白川さんは九州大の友人からあるミッションを頼まれた。大阪で開かれる70年万博を前に、ベ平連が企画した反戦イベント「ハンパク(反戦のための万国博)」。その会場となる大阪城公園に米軍機ファントムの破片を運んでほしい、と。

 九大構内へのファントム墜落は68年6月2日。機体の破片は大学に残されたままだった。反戦の象徴としてハンパクに持ち込みたいが運び手がいない。白川さんに白羽の矢が立った。

 ライトバンに破片を積み、福岡を早朝に出発。警察の検問にも合ったが「雑誌を運んでいます」とごまかした。大阪まで25時間、一睡もせずたどり着いた。配線がむき出しになった破片が会場で披露されると、拍手喝采を浴びた。

 その後、九大教養部で続いていたバリケード封鎖のメンバーにも誘われた。「短期間だけ」のつもりがなかなか抜け出せず、69年10月には機動隊が突入。白川さんは凶器準備集合罪などで執行猶予付きの有罪判決を受けた。福工大を退学処分となった。

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 友人の誘いとはいえ、九大生でもない白川さんを、運動に突き動かしたのは何だったのか。

 幼少期から、兵役で満州(現中国東北部)に行った父に「戦争は絶対にいかん」と聞かされて育った。だが、米軍板付基地がある福岡市の空には米軍機が飛び交う。長崎県佐世保市には68年1月、米原子力空母エンタープライズも寄港し、現地の「闘争」は連日報道された。

 ファントムの破片を運んだのも「戦争は日常の地続きにある。それを感じてもらいたかった」という思いからの行動だった。

 中退後、料理人を志し修業を重ねた。30歳で古里の山口県下関市に戻り、借金をして日本料理店を構えた。父は「何か手伝おうか」と喜んでくれた。独立開業し、今年で40年を迎える。

 平成という時代は戦争のないまま幕を下ろした。その傍ら、3年前には集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法が施行された。米軍との一体化は着実に進んだようにも見える。

 「社会に問い掛けた行動は後悔していない。ただ、親を泣かせたことは悔やんでいる。別のやり方があったのかもしれないね」。若さと勢いに任せた日々。記憶の中で輝きを放ってはいるが、その後味は苦い。

▽市民運動の草分け ベ平連

 1964年、南北に分断されたベトナムの統一と独立を巡り、米国が軍事介入を強化し、南ベトナム軍を支援した。これを機に、世界各地でベトナム反戦運動が湧き起こった。日本では65年、作家の小田実氏や哲学者の鶴見俊輔氏らが、ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)を結成した。

 ベ平連は、各地で反戦デモを繰り返したほか、米国主要紙への意見広告の掲載や米軍脱走兵の支援にも当たった。既成政党の平和運動とは一線を画し、自発的な市民の集まりを求め、多くの若者層が参加した。74年に解散した。

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