久留米城跡を歩く 本丸跡16の碑が点在 郷土の偉人、戦没者を顕彰

西日本新聞 筑後版

 久留米市街地の北西、筑後川が支流の宝満川と交わるほとりに久留米城跡はある。石垣に囲まれた本丸跡には篠山神社(久留米市篠山町)の境内が広がり、郷土ゆかりの偉人の顕彰碑や戦没者の慰霊碑が点在する。市文化財保護課の小沢太郎さん(49)と広い境内を歩き、碑ができた経緯や石垣の魅力に触れた。 

 小沢さんによると、主な碑の数は16で、明治20年代から昭和50年代まで約90年の間に建てられた。そのうち明治20~30年代の建立が半数近くを占める。

 最も古いのは、1889(明治22)年に拝殿近くに建てられた「石人首級碑」。江戸後期の久留米藩の国学者矢野一貞が、八女市の岩戸山古墳で見つけた石人の頭部を、矢野の遺族が神社に寄贈したことを記念したものだ。

 1889年は大日本帝国憲法が発布され、久留米市制が施行された年でもある。翌年には天皇制の強化を図った教育勅語が発布されている。小沢さんは「新しい国の形や道徳が示され、近代日本が動きだした時期。模範となる郷土の偉人に光を当てようとの機運が高まったのではないか」とみる。

 本殿の裏側に回ると、七つの碑が並ぶ。その一つに、八女郡出身で飛鳥時代に活躍した兵士、大伴部博麻(おおともべのはかま)の名前が刻まれている。博麻は倭(日本)と友好関係にあった朝鮮半島の百済の復興を支援するため、倭が新羅、唐の連合軍と激突した白村江の戦いに従軍。自ら捕虜となりながらも仲間の帰国資金を用立てようと、身を売って奴隷となったとされる人物だ。

 30年の抑留を経て帰国した博麻は、天皇から土地を与えられたり、税を免除されたりと、愛国者として称賛された。「国家に忠誠を尽くした博麻を顕彰することで、国民としてあるべき姿を示そうとしたんでしょう」と小沢さん。近代国家の黎明(れいめい)期、愛国心の象徴的存在だった博麻。その碑は、明治政府が目指した天皇中心の国づくりに一役買ったようだ。

 南側には、戊辰戦争や1871(明治4)年の反政府事件「久留米藩難事件」で落命した藩士を祭る碑や、明治のロマンチシズムを象徴する洋画家青木繁をたたえた「画聖青木繁碑」もある。青木の碑は、青木の死後、遺灰の一部が埋められた久留米市山本町豊田の兜山(かぶとやま)(通称けしけし山)が見える場所を選んで、1968(昭和43)年に設置されたという。

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 なぜ本丸跡の境内が碑の建立場所に選ばれたのか。そこには市民との関わりがあったとみられる。

 久留米城本丸は天守閣こそなかったが、本丸御殿を中心に七つの櫓(やぐら)を備え、2階建ての回廊が本丸を囲むように櫓同士をつないでいた。中でも南東部にあった巽(たつみ)櫓は3層構造で、周囲に威容を誇っていたとされる。

 17世紀後半、長崎から江戸に向かう途中で久留米に立ち寄ったドイツ人医師ケンペルは、久留米城について「大きな門と美しい構えを備え、清き池濠を巡らしている」と紀行文に記して称賛した。

 ただ、明治維新後の廃藩置県に伴って久留米城は陸軍の管轄となり、廃城が決まった。建物は壊され、県外の材木商人に売却された。売却先の商人は木材だけでなく、石垣まで運び出そうとしたため、これを惜しんだ市民有志が資金を出し合い、石垣は買い戻したという逸話が伝わっている。

 1877(明治10)年、本丸跡に歴代の久留米藩主を祭る篠山神社が創建された。小沢さんは「当時は旧士族の家臣たちも数多く残っていた。久留米城は市民にとって思い入れが深く、象徴的な意味合いがあった」と説く。かつての主君と国家への忠誠が重なる場所だったからこそ、碑の建立が相次いだのかもしれない。

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 久留米城本丸の魅力を語る上で欠かせないのが、最大で約15メートルの高さがある石垣だ。東側の一部には、久留米藩初代藩主有馬豊氏が1621年に入城する以前に筑後一円を治めていた田中吉政の時代に築かれたとみられる石垣も残る。

 石垣は、有馬豊氏の入城から20年以上かけて整備された。田中時代の石垣は、石の大きさにばらつきが目立つが、最も後期に完成した南西部は、石の大きさがほぼ均等で、整然と積まれている。大きさが均等なら作業効率が上がり、より高く積める。戦国時代から江戸初期にかけて発達した石垣技術の完成形という。

 「久留米藩の石工は、幕府の命令により各地の城の石垣も造っていた。そのため他藩の石工とも交流し、進んだ技術を取り入れていたようです」と小沢さん。天守閣や櫓はなくとも、石垣を眺めるだけで十分、歴史のロマンに浸ることができた。

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