フォーク編<424>村下孝蔵(6)

西日本新聞 夕刊

ネコと遊ぶ村下孝蔵 拡大

ネコと遊ぶ村下孝蔵

 村下孝蔵の作品に「同窓会」という曲がある。

 <…汗かき先生 仰げば尊し 白いチョークと黒板 笑顔としかめっつら…あれから五年十年 忘れない 一緒に泣いた青春を…>

 この曲は村下が急逝する前年の1998年に発売された。結果的にはこれがシングル作品としての遺作となった。テーマにした同窓会は小中高のどの時代をイメージにしたのか。「同窓会」を好きな曲の一つに挙げる中学時代の同級生、坂本由伊子=熊本県水俣市=は「高校時代ではないのか」と語るが、郷愁を背景にした学校時代全体の回想といえる。

 詞の中に<同じ窓から見ていた未来>とのフレーズがある。当時、村下はどのような未来を描いていたのだろうか。

   ×    ×

 村下は熊本市の鎮西高校から北九州市の新日鉄八幡製鉄所へ。水泳部からスカウトされた。同水泳部の先輩にはローマオリンピック(1960年)の100メートル背泳で銅メダルを獲得した田中聡子がいた。田中がメディアの中で「多くの企業がスポーツに力を入れていた」と回顧しているように実業団がアマチュアスポーツをけん引していた時代だった。

 高校時代、同じ水泳部にいた原義晶=大阪府豊中市=は「村下がオリンピックを目指している」とは聞いていない。ただ、口には出さないが、村下の中を当然、青春の夢としてオリンピック出場は少しはよぎったはずだ。

 「水泳のタイムが伸びなくて会社をやめようと思っていたら工場長からギターが弾けるんだから、会社のハワイアンクラブに入れって言われてそこに入ったんです」

 村下は雑誌のインタビューの中でこのように水泳に見切りをつけたことを述懐している。ハワイアンは自分の音楽志向に合わなかった。

 「僕はベンチャーズをやりたかったので、会社でメンバーを募集してベンチャーズバンドをやったんです」

 水泳での限界を知った村下にとって慰めは音楽、ギターしかなかった。そのころ、熊本県阿蘇のホテルで働いていた父が新天地を求めて、広島市に移住した。それに合流するように村下も九州の地を離れた。北九州市での生活はわずか約半年間だったが、村下にとっては水泳ではなく別のコースを選択せざるを得ないターニングポイントの地だった。

 当時、広島はフォークの聖地だった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

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