粕屋の「海」の万葉歌 大串 誠寿

西日本新聞 オピニオン面

 大宰帥(だざいのそち)大伴旅人は、令和ゆかりの梅花の宴を催した年の6月、重病に倒れた。遺言をするため、義弟稲公(いなきみ)と甥胡麻呂(こまろ)を大宰府に呼び寄せた。2人が駆け付けて程なく、病は小康を得る。安堵(あんど)した2人は大宰府官吏の大伴百代(ももよ)や旅人の長男家持(やかもち)らに付き添われ、奈良への帰途に就く。

 夷守(ひなもり)で宴が催され、百代が送別の歌を詠んだ。

草枕 旅行く君を 愛(うつく)しみ たぐひてそ来(こ)し 志賀(しか)の浜辺を

 歌意は「旅ゆく君を、いとしく思い、連れ立って来ました。志賀の浜辺を」といったところか。

 夷守とは古代官道の駅で、福岡県粕屋町にあったと推定されてきた。近年の発掘調査で、駅施設とみられる大型の建物跡が確認された。内橋坪見遺跡である。大宰府政庁と同じ様式の鬼瓦や、朱色の塗料が付着した瓦が出土し、古代官道の推定線が遺跡の横を通過する。

 町教委の文化財係主幹、西垣彰博さん(44)は「外国使節の往来に備えた格式の高い建築とされていた、文献史料の記述に合致する」と話す。

 建物跡は粕屋の豊かな平野を見下ろす高台にある。大伴一族の一行は眼下の滴るような緑を、そして海を見ただろう。日本大学文理学部叢書(そうしょ)の古地図研究によると、当時の海岸線は夷守と官道に近い。「志賀の浜辺を」来たという百代の歌の描写に合致する。

 その「志賀の浜辺」に注ぐ多々良川の河口には、多々良込田遺跡があり、官衙(かんが)とみられる建物群の跡や、大宰府式鬼瓦、輸入中国陶磁器が発見された。遺跡近くの「志賀神社」は、古代の海上交易の拠点だった志賀島の「志賀海神社」と祭神が同じという点も踏まえ、一帯が海港として栄えた時代をしのばせる。

 内陸という先入観でこれまで見落とされてきたが、上代に存在した粕屋の「志賀の浜」は示唆的である。「志賀」の海辺を詠んだ他の万葉歌の解釈にも、新たな広がりを与えると思われる。

 考古学の成果は万葉歌に輪郭を与え、詩趣を深める。旅人の病は数十日を経て癒えたとあるので、百代が歌を詠んだのは夏の盛りである。日に焼けた官道に潮風を加えて思い描くとさらによい。

 (デザイン部次長)

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