朝鮮戦争に殉職す 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面

 終戦後の1950年、昭和天皇が四国に巡幸されることになった時、発足して間もない海上保安庁に緊張が走った。視察先の一つ、小豆島の周辺の海には、米軍の機雷が処理されず残っていたからだ。

 機雷は、船が触れれば爆発する水中兵器。大戦中は接近しただけで磁気に反応するタイプが開発された。米軍は日本の海運を断つため、関門海峡から瀬戸内海、さらに太平洋や日本海の港湾へ、爆撃機B-29などで機雷をまいた。

 その数は約1万1千個。終戦までに820隻の船が失われ、戦後も119隻が損なわれたという。終戦直後の45年10月には、関西汽船の室戸丸が大分県別府市へ向かう途中、神戸沖で機雷に触れて沈没。乗客約500人のうち、救助されたのは25人だった。

 機雷の処理は「掃海」と呼ばれ、熟練の腕が要る。元日本海軍の関係者が当たったがこちらにも犠牲者が出て、機雷が密集する北部九州の航路や水道に「安全宣言」が出たのは52年のことだった。

 機雷について国際条約は、敷設した国が確実に管理して戦争終了後の事故を防ぐよう義務付ける。戦後、日本に掃海を命じた米軍は、条約違反を伏せるため、掃海作業や殉職者の発表を許さなかった。

 こうした中での巡幸は、海上保安庁の努力で事なきを得た。初代長官の故大久保武雄氏(熊本市出身、後に衆院議員)は著書「海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層」(78年、海洋問題研究会刊)で当時の苦境を振り返るとともに、50年に起きた朝鮮戦争に米軍の要請で派遣された特別掃海隊の秘話を記している。

 北朝鮮軍は国連軍が上陸した黄海側の仁川のほか、日本海側の元山港などにもソ連製の機雷網を敷いた。元山では確認できただけでその数は約3千。当時の日本政府は早期の対米講和を望んでおり、米国の心証を良くするために部隊の派遣に同意した。

 だが門司港に集結した掃海艇など25隻のうち、元山に送ったMS14号艇が機雷に触れて沈没。当時25歳の中谷坂太郎氏が死亡し、重軽傷者18人が出た。それでも部隊は任務完了、米軍は謝意を伝えた。

 とはいえ、これは、新憲法で戦争を放棄した日本が戦争に関与したことを意味する。隊員は政治への影響を考え、マスコミに口を閉ざした。

 大久保氏が同書を出した当時、事の次第を新聞やテレビが取り上げた。しかし記憶は再び風化の一途にある。この古書、ネット通販で1万3千円余の値が付く。私は福岡市総合図書館の閉架で見つけ、初めて目にした。広く読まれればと願う。 (編集委員)

PR

PR

注目のテーマ