水俣病が全ての原点 弁護団の馬奈木さん 第1次訴訟から50年

西日本新聞 社会面

水俣に事務所を構えていた当時の馬奈木昭雄弁護士。原告と弁護団との信頼関係を維持するため「弁護団だより」の発行を続けていた 拡大

水俣に事務所を構えていた当時の馬奈木昭雄弁護士。原告と弁護団との信頼関係を維持するため「弁護団だより」の発行を続けていた

馬奈木昭雄弁護士

 水俣病の患者や家族が初めて、原因企業チッソに損害賠償を求めた「第1次訴訟」の提訴から14日で50年。駆け出しの弁護士だった馬奈木昭雄さん(77)=福岡県久留米市=は提訴の翌年、現地に事務所を構え、3年余り常駐した。「半世紀前に指摘された課題が解決されないまま、別の形でまた露呈している」。理不尽な被害を受けた人を支え、権力と対峙(たいじ)してきたベテラン弁護士が「原点としての水俣」を振り返った。

 1969年6月14日、熊本地裁。2カ月前に弁護士登録したばかりの馬奈木さんはこの日、渡辺栄蔵原告団長=故人、当時(71)=の決意表明に、弁護団の一人として耳を傾けていた。

 「ただいまから、私たち水俣病患者は国家権力に立ち向かうことになった」。企業相手の訴訟に国家権力を持ち出した渡辺団長の「認識の正しさ」に感じ入ったことをよく覚えている。

 前年の9月、国が水俣病の原因をチッソ水俣工場の廃水と断定。補償問題が再燃し、第三者機関への一任に不信を抱いた29世帯112人が決意した初めての「水俣病裁判」だった。地域社会に“城主”として君臨するチッソは、市役所や親族を巻き込み原告の切り崩しを図る。離反を恐れた支援組織は、一刻も早い提訴を弁護団に促した。

 準備不足で、裁判が始まっても十分な書面も証人も出せなかった弁護団は、一部の支援者から批判を浴びた。70年12月、原告との信頼関係を再構築するため、馬奈木さんは福岡市の法律事務所から水俣に移った。

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 「現地にいるからこそ気付くこと、できることがある」。最初の仕事は月2回の「弁護団だより」の発行。手書きのガリ版だった。「討論の場、いこいの場」になるようにと、裁判の進行状況や原告の細かな日常も伝え、判決後の73年10月まで65号を数えた。

 72年7月には、1週間にわたって裁判長ら3人が原告宅を回る本人尋問を実現させた。同じ頃、水俣に住み込み、患者や原告らの日常を撮影していた米国人写真家の故ユージン・スミス氏に、胎児性、小児性患者の撮影を依頼し、証拠として提出した。そこにある現実と、患者や原告の息遣いが裁判官の心を揺り動かした、と信じている。

 判決は原告側全面勝訴。それでも人々に笑顔はなかった。ある「解説」が心に残っている。「真の被害者救済のためには未然に公害を防止しなければならない。そのためには強力な立法行政施策が必要だ」(73年4月21日「判例時報」)。それは、斎藤次郎裁判長本人による寄稿だろうと言われている。半世紀近くたっても過去のものとはならず、正しい問題提起であり続けていることが「悲しい」と、馬奈木さんは言う。

 「公害の原点」と言われる水俣病。「被害者の押しつぶし方、被害事実の隠し方、因果関係のごまかし方…。全ての原点。今、目に見える形で現れているのが、原発事故が起きた福島ではないか」。炭鉱労働者のじん肺被害、国営諫早湾干拓事業を巡る訴訟など、数々の訴訟で弁護団長を務めてきた馬奈木さんの目には、被害者を分断し、加害責任の矮小(わいしょう)化を図ろうとする「権力側」の姿勢が垣間見えるたび、水俣の光景が浮かぶ。「国の基準を守っていても安全とは言い切れない。そして、原告や支援者を分裂させない。これが私が水俣から学んだ教訓だ」

 水俣病第1次訴訟 原因企業チッソ(東京)に損害賠償を求め、患者と家族29世帯112人が熊本地裁に起こした水俣病で最初の訴訟。最終的な原告は30世帯138人。「メチル水銀中毒症に対する予見は当時の技術水準では不可能で、過失責任はない」とするチッソ側に対し、原告側は「有害物質を取り扱う化学工場には元々、廃水に対する注意義務がある」と訴えた。1973年3月20日の判決は原告側主張をほぼ全面的に認め、総額約9億3730万円の賠償を命令。チッソは控訴を断念し、一審判決が確定した。

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