患者支えた黒子の覚悟 河合仁志

西日本新聞 オピニオン面

 50年前の6月14日、熊本地裁の門前に大勢の人が集まった。水俣病の患者や家族29世帯112人が、原因企業チッソに総額約6億4240万円の損害賠償を求めて提訴。後に第1次訴訟と呼ばれる水俣病最初の裁判が始まった。3年9カ月後に勝訴し、水俣病の歴史を切り開くことになる原告たち。彼らを励まし、時に盾となって支えたのが、昨秋亡くなった日吉フミコさんと、故松本勉さんだった。

 松本さんは1952年に水俣市役所に入庁、建設課に勤務した。管轄先にコレラなどの伝染病隔離病棟「避(ひ)病院」があった。56年の水俣病公式確認後、一部の患者が収容されていた。水俣病が「伝染病」ではないと判明した後も。

 「『ぐらしか(かわいそう)、ぐらしか』と言うだけで言葉が続かんじゃった」。松本さんの親友で、患者支援でも行動を共にした松田哲成さん(90)は、避病院の患者に衝撃を受けた松本さんを覚えている。「あの光景が忘れられんかったとでしょうな」

 59年末にチッソと患者側が低額の「見舞金契約」を締結。国やチッソの妨害で原因究明が遅れたこともあり、水俣病は長く「終わったこと」とされていた。66年ごろから、当時社会党の市議だった日吉さんが議会でチッソの追及を強める。67年6月に新潟水俣病の患者が昭和電工を相手に訴訟を起こすと、市職員労働組合の幹部だった松本さんも、日吉さんと一緒に水俣の患者宅を本格的に回り始めた。

 翌68年1月、初の支援組織「水俣病対策市民会議」を結成。会長に日吉さん、事務局長に松本さんが就く。既にこの時、松本さんは「裁判しか患者を救う道はない」と決意していたと、松田さんはみる。同9月に国が原因をチッソ水俣工場の廃水と断定し公害認定。補償問題が再燃し、患者は第三者機関への一任派と、訴訟派に分裂していく。

 チッソの意をくんで、訴訟派への切り崩しは激しさを増す。それを防ぐため「垣根に隠れて訴訟派の家を見張った晩もあった」と松田さん。松本さんも後年、本紙に「早く裁判をしたくてたまらんだった」「数が少なかなら自分が原告になろうと思った。患者さんと偽装結婚しようかと真剣に考えた」と語っている。

 73年3月、勝訴判決。敗訴も考えていた松本さんは「精も根も尽きていた。それぐらい一身を懸けた裁判だった」。「城主」と言われたチッソに弓引くことを恐れなかった原告は最終的に30世帯138人。松本さんらの献身を、ある原告は「市民の中から生まれたことが、水俣の救いだ」と表現する。 (水俣支局長)

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