父奪った沖縄戦、不戦誓う 北九州市の茶屋本さん 不条理に涙より怒り

西日本新聞 社会面

沖縄戦で戦死した父の名が刻まれた碑に手を合わせる茶屋本広喜さん=22日午後2時35分、沖縄県糸満市摩文仁 拡大

沖縄戦で戦死した父の名が刻まれた碑に手を合わせる茶屋本広喜さん=22日午後2時35分、沖縄県糸満市摩文仁

 石碑に刻まれた父の名に、軍用機の丸窓から手を振る若き日の姿が浮かんだ。日米合わせて約20万人が犠牲になった沖縄戦から74年。沖縄を訪ね続ける茶屋本広喜さん(80)=北九州市=は22日、最後の激戦地、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の丘で手を合わせた。「お父さん、今年も来たよ」

 小倉の駐屯地にいた旧日本軍大尉の父が沖縄に向かったのは1944年5月。福岡県の雁ノ巣飛行場から軍用機で飛び立った。母やきょうだいと見送りに出向いた茶屋本さんは「父は笑顔で手を振っていてね。今もよく覚えている」。

 沖縄の父はしょっちゅう手紙を送ってくれた。「母の教に従ひ御世話をするんですよ」「御元気で遊びなさい」。武骨な文字は、家族を気遣う優しさにあふれていた。しかし手紙は間もなくして途切れ、終戦後の45年12月に公用はがきが届いた。「茶屋本大尉殿の所属部隊は本年3月20日米軍上陸後 音信不通詳細不明 一日も早く御帰還御祈り申し上げる」と書かれていた。帰らぬ父を待つ母は3年後、葬式を挙げた。

 遠い戦地で知るすべもなかった父の最期。「お父さんの遺骨を見つけた」。行動をともにしたという沖縄に住む外間政太郎さん=享年89=からの手紙が届いたのは戦後10年がたってからだった。沖縄戦で遺骨が戻るケースは珍しく、当初は信じられなかった。国を通じて木箱に入った遺骨が届いた。父の姉が遺骨の中から記憶にある金歯を見つけ「間違いない。政次だよ」と泣き崩れた。

 外間さんとはその後もやりとりをし、父の戦地での様子が少しずつ分かってきた。沖縄が本土復帰した72年には初めて現地を訪れ、父の足跡をたどった。最期を迎えたのは糸満市摩文仁の「第89高地」の壕(ごう)の外だった。外間さんはその時の状況を手記に残していた。

 『6月17日 「ドドパアン」と壕の上で爆撃音がした。「大尉殿がやられた」と菊池軍曹が飛び込んできた。肉片が枯れ枝にへばりついている。出血多量ですでに意識はない。が体は温かい。茶屋本大尉を入り口近くに埋めるべく、菊池軍曹と2人で石を掘り小石を払い、1人分の穴を掘りやっと埋めることができた』

 悲しみよりも戦争の不条理に怒りを覚えた。多くの市民を巻きこんだ沖縄戦とは何だったのだろうかと考えさせられた。以来、毎年沖縄を訪ねた。外間さんとは亡くなる2008年まで交流を続け、遺骨収集のボランティアにも加わった。

 22日、糸満市の「勇魂の碑」前であった慰霊祭。父のいた第32軍司令部の犠牲者を悼む式典も、遺族の参加は茶屋本さんを入れて2家族だけだった。「あと何回訪ねることができるか分からない。それでも、こんなばかげた戦争を二度と起こしてはいけない。それが僕らの責務だと思う」

【ワードBOX】沖縄戦

 太平洋戦争末期の1945年3月以降、沖縄本島や離島で繰り広げられた国内唯一の地上戦。沖縄の住民約9万4千人を含む日米約20万人が犠牲になった。本島中部に上陸し侵攻する米軍に対して日本軍は南部に撤退、自然洞穴などに避難した一般住民も巻き込まれ被害が拡大した。日本軍の第32軍司令部、牛島満司令官の自決を受けて6月23日、組織的な戦闘が終わったとされる。

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