「泣かないで」18歳の特攻隊員、父母への遺書 戦友の手紙が記す最期

西日本新聞 一面

松尾巧さんが出撃前日に書いた遺書。「護国の花と立派に散化(華)致します」などと書かれている 拡大

松尾巧さんが出撃前日に書いた遺書。「護国の花と立派に散化(華)致します」などと書かれている

神風特別攻撃隊第三御楯706部隊の松尾巧さん(遺族提供) 空襲で柱が傾いた自宅(奥)に「入れ代わり立ち代わり兵隊さんが下宿していった」と振り返る松山利夫さん(右)。おいの泰之さんは祖母から当時の話をよく聞かされたという=22日、宮崎市 特攻隊だった松尾巧さんの遺品に目をやる、おいの松尾近一さん。「平和の礎に刻銘されて、叔父が生きた証しが永久に残ることはうれしい」と話した=11日、佐賀県武雄市

 「平和の礎」に新たに42人の名が刻まれた。海軍航空隊宮崎基地から沖縄の米艦船に向けて出撃した神風特別攻撃隊第三御楯706部隊の松尾巧さん=当時(18)=もその一人。昨年、追加刻銘できることを知らされ、申請したという佐賀県武雄市の遺族を訪ねた。

 「墓石に刻まれた軍歴以外のことはよく分からない」。飛行服で腕組みした巧さんの遺影を見て、おいの松尾近一さん(71)は言った。自身は戦後生まれ。巧さんの兄に当たる父も祖父も何も語らぬまま逝ったという。残された日記や手紙を読み解くと、生前の姿が浮かび上がってきた。

 1941年8月~同10月の日記には、≪麦の日干し≫≪大根に虫が居るので取った≫など入隊前の日常がつづられている。満州事変以降、国際社会で孤立を深めていた日本はこの時期、急速に軍国主義に傾いていた。同年12月1日、巧さんは15歳で志願し、岩国海軍航空隊に入った。太平洋戦争開戦1週間前のことだ。

 飛行予科練習生として訓練を積んでいたころとみられる手紙も残る。≪朝、総員起こしのラッパが響き渡ります≫≪鍛えられて食べるご飯のおいしさ家にいては分かりません≫

 42年6月、ミッドウェー海戦に敗れた日本は主導権を失い、徐々に追い詰められていた。43年4月に完成した海軍航空隊豊橋基地(愛知県)にいた巧さんも出撃を間近に感じ、≪血湧き肉躍る≫と手紙に書いた。一方で1枚の絵を同封した手紙にはこんな言葉も並ぶ。≪絵のいわれをお話ししましょう。母さん虎と子どもの虎と二枚あります。私が子どもの虎の絵を持って参ります。親虎を家においておきます。そしたら子どもは遠くへ行っても、またいつか親虎のそばに帰って来るのだそうです≫

 戦争継続能力を失いつつあった海軍は44年10月、戦闘機で体当たりする神風特別攻撃隊を編成した。米軍の沖縄侵攻が始まった頃、巧さんも特攻隊に任じられた。

 ≪此(こ)の世に生を受けて以来、十有余年間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母に見事体当たりし、君恩に報ずる覚悟であります。お父さん、お母さん、そして姉さん、妹よ、泣かないで決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内揃(そろ)って何時までも御幸福に御暮らし下さい。後は御願い致します≫

 特攻前日の45年4月6日に書かれた遺書は、出納帳のページを折って作った封筒に入っていた。巧さんの名前と、宮崎市の「大渕方」の住所が記されている。手掛かりを求めて宮崎に向かった。

   ◇    ◇

戦友の手紙が命の証し 最期の出撃、足跡を後世に

 太平洋戦争末期、沖縄防衛のため、特攻隊が出撃した海軍航空隊宮崎基地跡には宮崎空港(宮崎市)が広がる。そこから南に約1キロ、松尾巧さん=当時(18)=が遺書に記した「大渕方」は自動車販売店に変わっていた。当時を知る人を捜すと、大渕家の親戚の松山利夫さん(85)、松山さんのおい泰之さん(61)に行き着いた。病気療養中という大渕家の80代の主人に代わり話を聞かせてくれた。

 宮崎基地から近かったこの地区には、兵隊たちが入れ代わり立ち代わり下宿した。米軍の沖縄侵攻の事前攻撃と言われる宮崎空襲(1945年3月18日)で柱が傾いた松山さん宅にも、特攻隊員とみられる若者が何度も泊まったという。

 死を前提とした出撃が決まった特攻隊員の中には、ぼうぜん自失し、失神や失禁する者もいたとされる。松山さんは「兵隊さんが寝ていた布団には漏らした跡があった」「昼間から酩酊(めいてい)し、千鳥足で基地に戻る者も見た」と話す。一方、泰之さんは隊員の別の姿を祖母から聞いた。「ろうそくの明かりで無心に手紙を書いていた」「18~19歳の3人が『お世話になりました。今から行ってまいります』とはきはきと言い、敬礼して出ていった」

 巧さんは最期の夜をどんな心境で過ごしたのか。宮崎基地から出撃した特攻機は45年3月21日からの約2カ月間で40機超。120人以上が戦死したとされる。

   ■    ■

 巧さんの最期を知る手掛かりは、遺書の他にもう一つあった。おいの松尾近一さん(71)=佐賀県武雄市=から「旧字で読めん。解読してほしい」と託された手紙だ。敗戦翌年、巧さんと同じ部隊にいた男性が松尾家に宛てたものだった。宮崎市の戦史研究家、稲田哲也さん(48)を頼るとすぐに訳してくれた。

 男性と巧さんは海軍入隊以来、一度も離れたことがない≪無二の戦友≫。44年11月にフィリピン・ルソン島の基地に配属になると≪雷撃、攻撃、爆撃≫に何度も出撃。帰国したとき、500人以上いた戦友は25人足らずになっていた。

 沖縄諸島への米軍上陸から4日後の45年3月30日、≪我が方の危機に迫り特攻隊を編成≫。フィリピン帰還者から選ばれた隊員は4月3日、国内の訓練先から宮崎に到着し同7日に8機が沖縄へ出撃。男性の機に巧さんが続いた。≪爆弾を腹に抱え二機はともに軸をそろえ、気流の間の間に見える姿をこれが最後かと思い互いに手を振りつつ進んだ≫。電信員だった2人は沖縄への数時間、電信で会話していたが、男性は米機の攻撃を受け島に墜落。1カ月後、基地に戻ると巧さんの姿はなかった。

 ≪必ず巧君の後をと心掛け、その後の特攻に参加せしも天候状況、時局の悪状況に接し目的すら貫通することもできず…≫。手紙には悔悟の言葉とともに、≪(最期の)様子をお知らせ致したい≫とあった。

 防衛研究所所蔵の「飛行機隊戦闘行動調書」などによると、4月7日に出撃した8機のうち男性を含む3機が帰還。巧さんは午後3時25分、「我今ヨリ必中セントス」「萬歳」と打電し敵艦に突入したとあった。

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 こうした戦友の手紙や遺書は約20年前、佐賀県武雄市の実家で、仏壇を掃除中に経机の中から偶然見つかったが、子細に調べてはいなかった。存命だった巧さんの兄にも「聞けなかった。戦争のことは一切話さなかったから」と近一さんは話す。

 巧さんの父は生前、茶畑で茶摘み中に「ここに巧の家を建てるはずだった」と漏らしていたという。大切に保管されてきた手紙や写真から、亡き息子を思い続けた父の姿が推し量れる。

 「平和の礎」への刻銘を機に判明した巧さんの足跡。近一さんは「10代の若者がどんな思いで出撃していったか。中学生の孫にしっかり伝えたい」と話した。

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