フォーク編<426>村下孝蔵(8)

西日本新聞 夕刊

村下がよく眺めたフェリー乗り場 拡大

村下がよく眺めたフェリー乗り場

 村下孝蔵の広島時代の秀作に「松山行きフェリー」がある。ヒット作の「初恋」や「踊り子」などに比べれば陰の存在だが、若書きのストレートさが出た、いわばご当地ソングの秀作でもある。

 <…港に沈む夕陽(ゆうひ)がとても悲しく見えるのは すべてを乗せた船が遠く消えるから…>

 村下と親しかった地元タレントの広島市の西田篤史は「村下兄ちゃんは海が好きだった」と言った。故郷の水俣(熊本県)は海辺の町だった。二人はよく、広島港に行った。海の見える場所に座り、村下はギターを弾いた。四国・松山を往来するフェリーを数えきれないくらい眺めた。「松山行きフェリー」は、若い男女の別離を歌う抒情(じょじょう)詩と同時に叙景詩でもあった。

   ×    ×

 西田が村下と出会うのはRCC中国放送のラジオ局だった。西田は1976年、大学時代に同放送の「たむたむたいむ」のパーソナリティーに起用された。これがタレントとしての入り口だった。「たむたむたいむ」は月曜から金曜までの午後10時50分からの約10分間の番組だったが、当時、ラジオ人気もあり、若者たちに支持された。1年後、番組のディレクターが「この人もパーソナリティーに」と西田に紹介したのが村下だった。番組の担当は日替わりだった。西田の第一印象は「クマさんみたいだった」と言う。西田と同じマーチンのギターを抱えていた。

 「私もミュージシャンへの淡い夢を持っていましたが、村下兄ちゃんのギターはあまりにも上手で『こういう人がプロになるんじゃ』と思い、ミュージシャンの道を諦めました」

 西田は広島弁での語りがうまく、村下は苦手だった。それを補完するために、村下はリスナーから送られた詞に曲を付けて流した。西田はその才能に驚いた。

 「前奏なども付けた完全な作品に仕上げていました」

 村下がエレキギターからアコースティックギターに変えたのは広島時代だ。フォークは徐々にバンド、エレキギターに形を変えつつあった。ある意味、逆の流れだ。村下のスタイルの変化は、吉田拓郎が率いた「広島フォーク村」の影響もあったと思うが、西田に次のように語っている。

 「アコースティックの時代がまた必ず来るよ」

 (田代俊一郎)

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