破滅の戦争の舞台裏 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面

 かつてサラリーマンものの映画には、社長や重役の夫人が部下の妻たちを束ねて「ざあます」言葉で派閥争いをする喜劇があった。戦前の軍部にも、よく似た話がある。

 日本が太平洋戦争に突入する1941年の春のこと。陸軍省の田中隆吉兵務局長は、阿南惟幾(あなみこれちか)次官に呼び出され、厄介ごとを頼み込まれた。

 「大日本国防婦人会と愛国婦人会の抗争は日に日に激化して、最近ではまるで敵同士のようだ。皇后陛下も大変ご心痛と聞く。何とかこれを一つにまとめてくれまいか」

 「大日本国防婦人会」は、第1次上海事変の起きた32年に発足した。大阪港近くに住む主婦らが出征兵士に茶を振る舞ったのが始まりで、軍部の後ろ盾によって全国組織に発展。標語「国防は台所から」を掲げ、中央と地方の役員は軍人の妻が担った。

 一方の「愛国婦人会」の歴史は古く、発足は01年。佐賀県唐津市出身の社会運動家、奥村五百子(いおこ)が清朝末期の義和団事件の際に戦地を視察。惨状に心を痛め、将兵の支援に取り組んだ。日露戦争を経て組織は強化され、中央の役職には華族の、県支部長には知事の妻が就き、名士夫人のサロンの趣があった。こちらは主に内務省が管轄した。

 田中は戦後に書いた「裁かれる歴史 敗戦秘話」(長崎出版刊)で「この二つの婦人会は会員の獲得と事業の縄張り争いで熾烈(しれつ)な抗争を行った」と振り返る。ただ、争いは東京と大阪が中心。他県の庶民は両方に参加するのが普通だったという。地方は中央に振り回されていたのである。

 田中はこれら2団体と文部省系の「大日本連合婦人会」を統合し、新たに厚生省が管轄する団体を設ける方向で調整した。ところが東条英機陸相が反対した。いわく「この案は、女房に相談すると絶対にだめだと言う。厚生省と陸軍省が同じ権力を持つように改めよ」と。

 結局、東条が調整に乗り出して陸海軍や内務、文部、厚生など7省管轄の「大日本婦人会」設立が閣議決定された。名目上は管轄を分散しているが、実質は陸軍の影響力を温存する官僚手法である。

 田中は東条夫人に電話して「あまり出しゃばりなさるな」とたしなめた。すると後日、東条夫人は食事会で同席した田中の妻に、くぎを刺した。「出しゃばるなと言われるけれども、大臣の女房としてはやむを得ません」

 田中の妻は帰宅し、せっかくの中華料理がのどを通らなかったとこぼしたという。

 日本が破滅の戦いへ突入する半年前の、軍エリートの世界である。 (編集委員)

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