こんなところに沖ノ島(2)決死の渡航村の危機救う

西日本新聞 ふくおか版

 力強い和太鼓が木々の静寂に響く。境内の一角にしつらえた祭壇を前に、参列者は正座をしてこうべを垂れた。福津市の農村部、手光(てびか)の須賀神社では毎年5月に「沖ノ島ごもり」という神事が続いている。だが、神社からは沖ノ島どころか海も見えない。なぜ、島の名前が付いているのか。

 地域史を語り継ぐボランティアガイドの中川純子さん(66)は「沖ノ島の神様に村の危機を救ってもらったからです」と説明する。

 1890(明治23)年、赤痢が地域を襲った。医師がいない手光では村外れの掘っ立て小屋に病人を隔離するしかなかった。夫から看病する妻へ、子から親へと感染は際限なく広がった。

 「沖ノ島様にお願いに行くしかない」。故なく近づけば神罰が下ると言われる島に、農民たちは小舟で旅立った。荒波にもまれる決死の渡航。島に着くと、農民たちは岩の上にぬかずき、ただただ祈った。

 帰村して間もなく赤痢は下火になった。農民たちは沖ノ島がかすかに見える丘を「満念願(まんねんがん)」と呼び、祈りをささげるようになった。現在は丘を下った須賀神社で神事が続く。

 「実は後日談があるんです」。結婚して手光に来た中川さんは、旧宗像町の医師、故井上隆三郎さんが古老の話をまとめた著書「健保の源流 筑前宗像の定礼(じょうれい)」でそのことを知った。

 沖ノ島渡航の9年後、手光の農民たちは「米をみんなで出し合って医師を雇おう」と発案、隣村と合同で「神興(じんごう)共立医院」を設立した。豊かな家は年に5俵、貧しい家は5升出せば、いつでも無料で診てもらえる。「定礼」と呼ばれる制度で、昭和初期、国民健康保険の導入を検討していた内務省は手光を訪れ、制度を先取りしたような仕組みに驚いたという。

 神興共立医院跡は今、定礼の名を残した公園となり、住民の憩いの場に。中川さんは沖ノ島ごもりと定礼を題材にした劇の創作を考えている。「定礼は沖ノ島の神様に導かれた知恵なのかもしれませんね」

福岡県の天気予報

PR

福岡 アクセスランキング

PR

注目のテーマ