親子の絆を裂いた差別…ハンセン病家族訴訟の原告女性、苦難の半生

西日本新聞 社会面

 「今の気持ちを何て言ったらいいのか…」。家族にも及ぶハンセン病の差別を巡り、国に賠償を命じた28日の熊本地裁判決。原告に名を連ねた女性(74)=熊本市=は法廷で判決を聞き、目に涙を浮かべた。幼い頃に「死んだ」と聞かされたハンセン病元患者の父が、国立療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志市)にいると知ったのは20代前半。病への差別は親子の絆を裂き、父は亡くなった。苦難の半生を振り返り、女性は言葉を詰まらせた。

 幼少期、親族宅をたらい回しにされた。「どちらさまですか」と無視され、使った箸を陰で捨てられたこともあった。別の男性と再婚した母の元に戻った時期もあったが、母は「汚い子」と女性をののしった。ハンセン病のことなど何も知らなかった。

 22歳の頃、父が生きていると知った。結婚のため役所で戸籍謄本を取ると、生存者として父の名が記されていた。2年後、1歳の息子を連れて謄本にあった住所を訪ねた。着いたのは恵楓園。1時間ほど待つと、顔が変形し、両手に包帯を巻いた男性が現れた。

 「私は、この人の子どもだったのか」

 再会の瞬間、自分が親族に疎まれた理由を悟り、父に嫌悪感を抱いた。父も初めて見る孫を抱こうともせず、「なんで来たのか」と娘を叱りつけた。長い隔離政策が、親子の関係をひずませていた。

 父が恵楓園に入所したのは戦後間もない1948年ごろ。3、4歳だった女性に当時の記憶はないが、肉親を慕う気持ちはあった。

 再会後、女性の夫の理解もあり、父は自宅に遊びに来るようになった。夫や息子とは談笑する父に、女性だけが「来るな」「早く死ね」ときつい言葉をぶつけ、「親に死ねとは何か」とけんかが絶えなかった。父に捨てられた恨み、親の愛を求める気持ち。「父のことで離婚につながったらどうしようと、いつも心配でした」。さまざまな感情が入り交じっていた。

 89年、父は64歳で亡くなった。葬儀で涙は出ず、むしろ「もう病気を気にしなくていい」とほっとした。死後、父のたんすの奥から1枚の写真が出てきた。帽子をかぶり、すまし顔をした3歳の自分。故郷に戻れない隔離生活で、生き別れた娘の写真を心のよりどころにしていたのだろうか。女性は、父の本心を初めて知った思いだった。28日、女性は熊本地裁の廷内にその写真を持ち込んだ。

 父の遺骨は恵楓園の納骨堂に眠る。数年前、実家の墓に入れてもらおうと親族に頼んだが「供養の手間がかかる」と断られた。現実には今も、社会の底に沈むおりのように差別は残っている。判決が出ても、女性の人生は戻らない。

 「勝って良かった。でも言葉はありません」。複雑な思いを胸に、女性は父のもとに報告に行くつもりだ。

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