戦死した父、語らぬ母…「どんな人だったのか」記者に思い託す 富山丸沈没から75年

西日本新聞 社会面

 太平洋戦争末期、米潜水艦の魚雷攻撃で輸送船「富山丸」が沈没し、約3700人が犠牲になってから29日で75年。宮崎市の遺族、新谷征磨(しんがいせいま)さん(75)は、最近まで富山丸のことも、戦死した父新治さん=当時(26)=が乗船していたことも知らなかった。母は何も教えてくれなかった。父はどんな人だったのか、今知りたいと思うが…。

 陸軍の船だった富山丸は1944年6月29日朝、沖縄守備に向かう途中、鹿児島県・徳之島沖で魚雷攻撃を受けた。大量のガソリンを積んでおり、船内も海上も炎上。九州、四国出身者ら四千人余りに逃げ出す余裕はほとんどなかったという。

 母は戦後、父の弟と再婚し、娘2人をもうけた。征磨さんは実子として育てられたが、「妹と扱いが違うように感じていた。ずっと不思議だった」。

 10歳のころ、高齢の祖父が、義父を「新治」と呼び間違えたことで、実父の存在に気付いた。親戚や近所の人は「厳しい人だった」「将来は村長だと言われていた」と教えてくれた。墓石に刻まれた《陸軍曹長》《南西諸島で戦死》の文字や仏間の遺影を眺め、「生きていれば違った人生もあったのかな」とも考えた。

 自衛隊に入隊した征磨さんは、調べれば富山丸にたどり着ける環境にいたが、「そこまでしようとは思えなかった」と悔やむ。退職後の2013年、護国神社の菊花展に出展し、遺族会とつながった。命日で、すぐに富山丸と分かった。

 慰霊塔が立つ徳之島を5度訪ねたが、太平洋を前にしても父のイメージは具体的に湧かなかった。

 実は、征磨さんの母はまだ健在だった。ただ、征磨さんが徳之島を訪問したことを何度伝えても沈黙を保ったままという。「記者さんになら話せると思うんです」。そう言われ、特命取材班は大分県の山深い集落に向かった。

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