「避難させていれば…」救えなかった命、今も消えない悔しさ 家族3人失った男性 九州豪雨2年

西日本新聞 社会面

 大切な人を救えなかった悔しさは今も消えない。進まない復旧、復興へのいら立ち。集落や生活再建の道筋が描けない焦り。振り向けば癒えることのない心の痛みがあり、前を向けば重くのしかかる現実がある。少しは先に進めただろうか。いつか心から笑える日が来るのだろうか。ようやく建て直した家や仮設住宅で、職場や学校、追悼式で。それぞれが心に問い掛ける。九州豪雨から5日で2年。

 雷が鳴り響き、猛烈な雨が降り続いた。2017年7月5日、福岡県朝倉市杷木林田の東林田集落。4世代7人の大家族で暮らしていた坂本貴志さん(48)は、父行俊さん(79)、母純子さん(68)、祖母ヨリ子さん(89)=いずれも当時=を濁流に奪われ、自宅も一部を残して流された。

 午後4時17分。車の時計に表示された時刻を、なぜかはっきり覚えている。仕事を早く終えて自宅に戻ると、幼い娘2人と純子さんが自宅前の赤谷川を眺めていた。普段穏やかな川は濁り、荒々しく波立っていた。「逃げようや」。皆こわばった表情をしていた。「怖かった。パパが来て安心した」。小学2年になった長女(8)は、あの日の様子を覚えている。

 12年7月の九州北部豪雨で自宅が無傷だったこともあり、行俊さんとヨリ子さんは「前も大丈夫だったから」と消極的だった。避難準備をしていた純子さんも「2人が逃げんけん、おらんといかんやろ」と自宅に残った。

 貴志さんは説得をいったん諦めた。近くに住む妹に娘2人を預け、また戻って説明すればいいと思った。だが、この時が避難できる最後のタイミングだった。集落に続く橋は流木が次々に激突。午後6時ごろ、地元に詳しいめいに道案内を頼んだが、脇道もすべて濁流にふさがれていた。

 同時多発的な被害発生で警察、消防も「SOS」に対応できない。「水が来ちょる。タンスに上っちょる」。純子さんとの電話は午後6時半ごろが最後。聞こえたのはゴボゴボという水の音だった。

 平屋の自宅は濁流にのまれ、見えたのは屋根だけ。一瞬、濁流に飛び込み助けに行こうと思ったが、近くの車に待機させていためいと、妹に預けた娘の顔が浮かんだ。「あの子たちがいたから、今、生きている」

 東林田を含む市内全域への避難指示は午後7時10分。「もっと早く避難指示が出ていれば、説得材料になったかもしれない」。それが今も悔やまれる。

 自宅敷地は仮の堤防に埋まり、一部は川に沈んだ。最近、筑後川の対岸、福岡県うきは市に家を再建し、妻(47)と娘2人との生活が始まったが、ふとした瞬間、自責の念が湧き上がる。「引きずり出してでも、避難させていれば…」「屋根に逃げられんかったやろうか」。考えても答えはない。死んだほうがまし。そんな思いが頭をよぎる。

 「でも、家族のため、生活のため、無理やりにでも前を向く。いつまでもくよくよするやろうけど」。被災から2年。まだここまで。やっと、ここまで。

   ◇    ◇

心の中全く変わらず 東峰村の両親を亡くした熊谷さん

 川の水をくんで花を手向け、父の好きだった日本酒と、酒を飲まない母にぶどうジュースを並べた。実家跡で静かに手を合わせた後、熊谷一広さん(58)=大分県日田市=は立ち上がって空を見上げた。「このくらいの時間から、雨が激しくなったんです」

 福岡県東峰村で犠牲になった3人のうち、2人が熊谷さんの両親、国茂さんと千鶴代さん=いずれも当時(81)=だ。地元ではおしどり夫婦として知られていた。宝珠山川上流にあった家は土砂にのまれ、がれきの下から2人は見つかった。千鶴代さんは長靴を履いたまま。「田んぼが心配で見に行こうとしてたんでしょう」

 翌日、実家への道は通行止めになっていた。「お願いだから行かせてほしい。自己責任でいい」と1人でたどり着いた家は、土砂と木々に覆われていた。

 あれから2年。「全く心の中は一緒なんです。2年たってもまだ、昨日のことのように感じる…」。声を震わせ、そう打ち明けた。

 両親の田んぼを引き継ぎ、田植えから収穫まで1人で担ってきた。母に「田んぼはやめてもいいよ」と言われたこともある。それでも「ずっと続けていく。この時間が、親子で関わっている時だったから」。そう言いながら、実家跡に残る家の土台を見つめた。

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