中洲見守る玉屋の明かり ゲイツ入り口にレトロなランプ 閉店20年、「記念」で残る

西日本新聞 夕刊

「ゲイツ」の玄関を飾る二つのランプ=10日午後、福岡市博多区中洲 拡大

「ゲイツ」の玄関を飾る二つのランプ=10日午後、福岡市博多区中洲

「残っているのは本当にうれしい」とランプを指差す川原雅康さん=10日午後、福岡市博多区中洲 在りし日の福岡玉屋。玄関の上にランプがあった=1999年7月10日 1999年7月15日夜、シャッターが下りる福岡玉屋。川原さん(右端)も店内で頭を下げていた=福岡市博多区中洲

 ライブハウスやバー、書店などが入居し、外国人観光客も多く訪れる福岡市博多区中洲の複合商業施設「ゲイツ」。正面入り口に、近代的な建物とは少し不釣り合いなランプが二つあるのをご存じだろうか。特命取材班が調べてみると、かつてこの地にあった老舗百貨店「福岡玉屋」の外壁を飾っていた物だった。1999年7月15日の閉店から20年。レトロなランプは、今も中洲の町を静かに見守っている。

 二つのランプは高さ4~5メートルほどの壁面にあり、見上げる人はほとんどいない。周りに色とりどりの店舗看板が掲げられており、余計に目立たない。

 このランプ、よく見ると植物のような繊細な曲線が彫り込まれている。そう、玉屋のシンボルマークのバラがモチーフ。「ランプは全部で14~15個あったでしょうか」。玉屋閉店当時の常務取締役で、自治組織、中洲町連合会の相談役を務める川原雅康さん(81)は振り返る。

 福岡玉屋は25年に開業した福岡初の百貨店。戦時中は空襲を受け、戦後間もない49年には「子どもたちに夢を」と屋上に動物園を開き、カンガルーやワニ、ゾウもやって来た。60年入社の川原さんは、食料品の洋酒売り場を振り出しに、経理や総務の仕事をこなした。

 玉屋には「薄利にて売り高増せ」という、社員たちが社内で使う”暗号”があったという。「はくりにてうりたかませ」の各文字を「123456789々(=おなじ)0」に対応させる。

 「10」は「はせ」

 「25」は「くて」

 「33」は「りま」

などとなり、売り上げ金額などを言い表していた。「『良い品をどこよりも安く』というコンセプトは、入社したときからずっと言われてきました」と川原さんは振り返る。
 

 ランプは73年の改装で設置された。前年、幹部が視察先のフランスで買ったランプを参考に、玉屋らしいデザインを施したという。夜も人通りが絶えぬ歓楽街。店が閉まった後も夜10時ごろまで町を照らした。

 博多の顔として親しまれた玉屋の売上高は88年度がピーク。「従業員も一番多いときで1200人ぐらいいました」(川原さん)。90年代に入り、天神への商業集積が加速すると苦境に立たされた。食料品を充実させた「デパ地下」が各店の集客エンジンとなる中、「昔の建物なので食料品売り場が狭かった。1フロアの半分で『玉屋では(食料品が)そろわない』と天神に客が流れました」。

 そして99年、博多祇園山笠の追い山の日でもある7月15日、玉屋は営業を終えた。閉店予定時刻は午後7時。しかし、名残を惜しむ客たちはなかなか売り場を離れない。最後の客が出てシャッターが下りたのは同8時18分。川原さんも玄関で深く頭を下げ、涙を流した。

 川原さんはその後も中洲町連合会の専務理事として町に関わってきた。レトロなランプは、玉屋跡地を取得したコンサルタント会社(大阪)の社長が、ゲイツの開業計画の中で「玉屋は地域のために大きく貢献してきた。記念として残したい」と提案したという。玉屋の備品はほとんど処分されていたが、「ランプは、一番いい物を残していたのでしょう」。川原さんはこう推測する。

 ゲイツは2006年3月に部分開業。玄関前に玉屋の記念碑を作る話まであったが、その後、土地建物が売却されたため実現しなかったという。「今は誰も、ランプのことは知りません。でもこの場所に、博多の人に愛された玉屋があったことを忘れないでいただければ、本当にうれしいですね」。川原さんはそう言って、老舗の名残を見上げた。

    ◇    ◇ 

 玉屋の記憶は薄れつつある。ランプも点灯していない。しかし、ビルや乗り物のかぶりものを着けて福岡の歴史やドラマを演じる劇団「ギンギラ太陽’s」の舞台に、こんな場面がある。 「もう一度、博多ににぎわいを」と頑張るゲイツが窮地に追い込まれ、気を失う。するとランプがこうこうと光り、玉屋が天国からゲイツや博多を助けに現れる‐。主宰の大塚ムネトさんは言う。「玉屋は博多を発展させ、支えてきた人気キャラ。物語の中では、ずっと生き続けています」

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