全共闘 相対した大人は 山下 真

西日本新聞 オピニオン面

 「あまりに一面的で、歴史の歪曲(わいきょく)だ」。1960年代末に繰り広げられた全共闘運動をテーマにした連載「ワタシペディア 全共闘ダイアリー」の掲載後、当時の九州大助教授の息子という男性から、感想のメールが届いた。

 連載では運動の渦中に身を置いた人々を訪ね、その後の生き方を描いた。運動を美化していると感じたのだろうか。メールには、授業ストライキやキャンパス封鎖で混乱する中、「父」は手を焼いたと記されていた。当時の大人は、若者の反発にどう向き合ったのか。男性を訪ねた。

 福岡県久留米市の介護職員、山口道生さん(61)。父の宗之さんは高専教員を経て69年4月、九大助教授に。当時40歳で、専攻は幕末の政治思想史。83歳で亡くなる前日まで日記を付けていた。69年の日記を見せてもらった。

 《4月10日 入学式の途中で反代々木系学生の一部が壇上を占領したが、新入学生の「帰れ」のシュプレヒコールのため退去した》

 九大では前年、構内に米軍機ファントムが墜落し、反戦ムードや大学管理体制への反発が強まった。過激派学生の様子を、宗之さんは「大人のようで、子どもじみてもいる」とつづる。

 《5月23日 正門は机でバリケード封鎖されている。構内に学生の姿は多いが、セクトごとに旗を押し立て、デモがなされ、騒然たる空気だ》

 教授陣は緊急会議を重ね、警戒当直の日々。学生側との団体交渉は夜明けまで続く。常に「非常事態」だった。

 《10月11日 学生26人と芝生に車座になる。はげしい追求もあろうかと覚悟したのに、あっけないほど盛り上がりはなく…》

 封鎖を解くため、大学は機動隊に応援を求めた。事情を説明する宗之さんに対し、学生からの反論はなかったという。ここでも、宗之さんは「個人の見解さえない子ども」と冷ややかに見ている。

 宗之さんは自身の戦争体験から平和の尊さを知り、戦後の価値観の転換に直面した世代だ。一方、全共闘運動に加わった若者の多くは戦後生まれ。総じて社会に対する責任感は未熟で人生経験も乏しかったのだろう。宗之さんには稚拙に見えたかもしれない。

 ただ、戦後社会の矛盾を見つめ反発した若者の思いには純粋さもあった。当時の宗之さんと今の私は同年代。自分なら若者の真っすぐな問いにどう答えるか、考えている。

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 ▼やました・まこと 福岡市出身。2003年入社。筑豊総局、玉名支局、唐津支局などを経て社会部。公害や原発、ハンセン病などの取材を続ける。

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