フォーク編<429>村下孝蔵(11)

西日本新聞 夕刊

いつもギターを手にしていた村下(1999年) 拡大

いつもギターを手にしていた村下(1999年)

 村下孝蔵の4枚目のシングルは「ゆうこ」(1982年)である。村下の音楽人生の転換点になった曲で、この歌のファンも多い。

 <記憶の陰にぽつりと座り 淋(さび)しげに白い指先 ピアノを弾く女(ひと)…>

 最初のタイトルは「ピアノを弾く女(ひと)」だった。当時、結婚していた女性の名前が「ゆうこ」だった。ゆうこは広島県出身の日本画家、船田玉樹の娘で、声楽家だった母親の影響もあって、2歳からピアノを習った。ゆうこは広島市内で78年に村下と出会い、翌年に結婚した。

 二人は2Kの部屋で暮らし、娘も生まれた。生活は苦しかった。ゆうこによれば、村下は自主制作のアルバム「それぞれの風」(79年)を「青春の記念碑」として残し、シンガー・ソングライターの道をいったんは諦めようと考えた。「月あかり」(80年)でどうにかプロデビューしたものの生活は安定しなかった。それでも村下はゆうこと共に、厳しい下積み生活を経て、シンガー・ソングライターへ羽化する。

   ×    ×

 ゆうこは村下の作品について「100パーセント、メロディーラインが先だった。ラララと歌いながら」と話す。詞は後ということだ。ゆうこはそれを聴いて「サビの部分が三つあるから一つにしては」などとアドバイスすることもあった。常にカセットテープを回し、テープが「部屋の中で山のようになった」と言う。よく聴いていた曲は大塚博堂とオフコースだった。

 作詞に関しては曲作り以上に四苦八苦していた。作曲は昼間もしていたが、作詞は午前3時ごろから朝7時ごろまで続くのが常だった。

 夏に冬の歌を作るときには暖房器具を用意して、冬の状況に身を置いた、との挿話に村下の創作方法の一端を垣間見ることができる。

 「初恋」(83年)のヒット中に肝炎を患い、入院した。病床ではギターを弾く指が感覚を忘れないように、包帯を巻いた板をギター替わりにして指を動かした。家にいるときはギターを手放すことはなかった。

 このようなエピソードを語るゆうこの目に映った村下像は、一言で言えば「音楽一色」の人だった。

 二人は「ゆうこ」に続くヒット作「初恋」「踊り子」などの発売後、85年に別離した。ゆうこは現在、兵庫県芦屋市を拠点にアコーディオン奏者、娘の露菜(ろな)はシンガー・ソングライターとして活動している。  =敬称略

 (田代俊一郎)

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