特攻、抑留…何度も命諦め 佐賀の鳥谷さん(92)、筑前町で8月講演

西日本新聞 社会面

 令和の時代にも戦争の悲惨さ、命の尊さを伝え残したい‐。太平洋戦争末期に特攻隊で死を覚悟し、終戦直後にシベリアで苛烈な抑留経験をした佐賀市の鳥谷邦武さん(92)が8月3日、福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館で講演する。酷寒や飢えに耐え抜いて果たした帰国。「人間の殺し合いはばからしい」。戦後74年を迎えても、なお鮮明な当時の記憶を語る。

 「どうせ戦争に行くなら希望する隊に入りたい」。戦況が悪化していた1943年、16歳の鳥谷少年はそんな思いで大刀洗陸軍飛行学校に入校した。

 44年に中国・満州に移り飛行訓練を積んだが、出動前に「特攻隊」編入を命じられた。それからは突撃訓練の日々。100キロの模擬爆弾を抱えた機体の操縦もしたが、下降中のかじの利きが悪く速度も出ない。「攻撃前に落とされる」と実感した。

 逃げ出すわけにもいかず諦めの境地だったが、出撃命令は出ないまま「特攻待機」は解除され、終戦を迎えた。ほどなく侵攻してきた旧ソ連の兵士に捕まり、貨物列車に乗せられた。貨車には窓がなく、壁の隙間から外をのぞき見た。シベリア方向に進んでいるのが分かり、帰国の希望は絶望に変わった。

 独ソ戦で消耗していたソ連。シベリアの収容所で、日本人捕虜は労働力としてあてがわれた。鳥谷さんは材木の運搬作業などを行ったが、積み上がった材木がはねるように崩れるたび、多くの戦友が下敷きになり命を落とした。

 ソ連軍は約57万5千人を抑留し、うち約5万5千人が亡くなったとされる。冬季の凍土は掘れないため、遺体の埋葬は雪中。着ていた衣服は別の捕虜が使い、死体はオオカミが食べた。

 配給は滞り、1日の食事は「マッチ箱二つ分の大きさのパンとスープ」。凍った物体を拾っては、こっそりポケットで解凍して口に入れた。「腐ったジャガイモ」ならまだまし、動物のふんだったこともある。

 「いつ解放されるのか、何の情報もないのがつらかった」。生きて再び故郷の地を踏むことを何度も諦めかけた。日本での帰還促進運動の高まりを受け、鳥谷さんが帰国を果たしたのは、抑留から2年近くたった47年5月だった。

 戦地での体験を語れる人は、極めて少なくなった。「戦った相手も家族がいる人間。その人間が変わってしまうのが戦争の恐ろしさ」。90歳を過ぎてもかくしゃくとする鳥谷さんは、時間の許す限り一人でも多くの人に、自分が知る「戦争の真実」を話したいと願っている。

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 鳥谷さんの講演は3日午後1時半から。無料だが入館料は必要。要予約で先着順。大刀洗平和記念館=0946(23)1227。

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