被爆直後、女性記者が見た惨状 「そこは地獄絵図」21歳で広島入りし取材 戦後は闘病、79年の生涯

西日本新聞 坂本 信博 福間 慎一

 太平洋戦争末期、男性記者に召集令状が相次いで届き人手不足となった西日本新聞では、十数人の女性記者が取材活動をしていたとみられる。1945年8月6日の広島原爆では、当日夕から7日にかけて記者たちが現地入りした。当時21歳だった福永トシ記者もその一行にいた。 

 43年に20歳で入社し、編集局戦時版部員として本紙戦時版の取材・執筆を担っていた福永記者は、戦時下の新聞統制団体「日本新聞会」の機関紙「日本新聞報」の44年11月11日号に寄稿していた。執筆したのは広島で入市被爆する10カ月ほど前のことだろうか。

 「決戦下・婦人記者の覚悟」という欄で、1300字ほどの記事の見出しは「働く女性善導」。戦時下の女性の姿を、批判を交えながらこう分析している。

 <工場へ行ってみると、所によっては50%から80%までが女性で占められ電車の車掌から道路工夫、炭鉱の坑内まで実に女性の陰の力が充ち満ちている。(略)それだけ偉大な力を持ちながら、一人一人の個人に引き離すとたわいもなく自分の身の回りしか見つめないものである(略)何となく命令や時代の勢いに流されて動くだけである>

 当時、女性が勤労奉仕を行う「女子挺身(ていしん)隊」は西日本新聞社にも派遣されていた。福永記者は記事の中でそうした姿を紹介しつつ、女性の社会進出の必要性を強く訴えている。

 <政治も経済も丸く飲み込んだ腹の据わったお母さんが日本にはきっと要求される時代がやってくるに違いない(略)一つの働く部門を握った若い女性は、戦後にもどしどし仕事の分野を●(判読できず)めて社会の表に出ることだろう>

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 戦後に記した手記によると、被爆直後の広島入りは自ら手を挙げたという。当時、きょうだいが広島で暮らしていたので<全滅したのならせめて骨だけでも拾ってやりたいと思ったからだ>。しかし現地に到着すると<息を飲み込んで絶句してしまった。そこには地獄図が展開されていた>。

 <まだ息のある人が水の無い所にびっちりと並んで倒れていて、口々に「水をくれ、水をくれ」と言っているらしく、唸り声ともうめき声とも言えない声々だった。兵隊が長いひしゃくで川の死体を突きのけては水を汲んで、まだ息ある人々にパシャパシャと汚い川水をかけてやっている。私は自分が戦時服を着てズックを履いているのが恥ずかしかった、衣服を着けて元気に歩いていること自体が恥ずかしかった>――。

 福永記者は九州に戻った後、大量の抜け毛や原因不明の発熱、だるさ、吐血などの体調不良に悩まされ、休職もした。戦後は東京支社で国会や霞が関を取材し、48年に西日本新聞社を依願退社した。その後はフリーの記者を経て、入退院を繰り返しながら東京で料理店を経営。被爆者手帳も取得した。

 被爆当時4歳だった福永さんの妹は一命を取り留めたが18歳で亡くなったという。<闘病の生涯は重く、暗く、苦しく、つらいものだった。そしてそれは死ぬまで続くだろう>とつづった福永さんは2002年に死去。東京都内に暮らす息子の立夫さんは、「母が原爆の話をすることはほとんどありませんでした」と振り返る。

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 <私はどんなに頑張ってでもこの人達の真の目印になるような新聞を作ってゆきたいと思う。またそれが、これからどしどし多くなる婦人記者の使命だとも思う> 

 戦時中、銃後を守る女性たちの姿を取材することも多かった当時21歳の福永記者は、日本新聞会の機関紙への寄稿をこう締めくくっていた。そして、その10カ月ほど後に遭った被爆。苦しみと向き合いながら、懸命に生きた79年の生涯だった。

 【ワードBOX】本紙の広島原爆報道
 広島原爆では、現在の広島市中区にあった西日本新聞の広島支局も被爆。男性の新人記者と女性事務員が犠牲になった。1945年8月6日夕、本紙山口支局の荒牧博之記者が、7日夜に福岡市の本社から鬼頭鎮雄・前文化部長らがそれぞれ現地入り。支局員の捜索や取材に当たった。本紙は7日付で<広島に投弾>の見出しで50字の記事を掲載。10日付で荒牧記者の署名で広島原爆の現地の状況を報じた。<復興救護へ戦友愛>の見出しで写真はなく、荒牧記者は戦後「検閲が厳しくて、全部書き換えられた」と証言している。

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