「最後の被爆者」決意 姉が見たナガサキ語る つなぐ~胎内被爆者の74年(1)

西日本新聞 社会面

 黒表紙の分厚い本には、74年前の8月9日、15歳の女学生が脳裏に刻んだナガサキでの凄惨(せいさん)な体験が記されていた。被爆者の陸門(むつかど)良輔さん(73)=長崎市=は7月下旬、651文字でつづられた女学生の「あの日」を初めて読み、目頭を拭った。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(同市)が収蔵する長崎、広島の被爆体験集、通称「黒本」は、301巻に約5万5千人の体験を収める。その163巻441ページだった。「間違いない。姉の体験談です」

 今秋から、陸門さんは語り部として活動を始める。ただ、産声を上げたのは原爆投下から半年後。被爆したのは母の胎内だった。目撃もしていない、記憶もない。誰かに「聞いた話」しか伝えられぬ胎内被爆者に「語る資格があるのか」。そんなもどかしさを抱えながらも、親、きょうだいが時折話してくれた被爆体験を基に、修学旅行生らに語り継ぐ準備を進めている。

 記者の取材を受ける中で、祈念館に姉、浦里亮子さん=2006年、76歳で死去=の手記があることを知り、駆け付けた。

 手記によると、亮子さんは学徒動員先の爆心地近くの兵器工場で閃光(せんこう)を浴び、とっさに机の下に身を隠した。多くの学友が命を落とす中で生き延び、倒壊した工場から外へ。周辺には皮膚がだらりと垂れた赤ちゃんを抱く母親の姿があった。助けを求めて足をつかんだ人をやり過ごした-。

 死産を経験し、晩年に白血病も患った姉が最後まで語らなかった空白の部分が刻まれていた。「本当に地獄を見たんですね…」。陸門さんは、黒本の該当ページをメモ帳に記した。

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 58歳で郵便局を退職。歴史好きが高じて「長崎の史跡案内人」のボランティアに時間を割いてきた。被爆遺構の前では被害状況や自身が胎内被爆者であることにも触れてきたが、突っ込んで質問されることは少なく、思いが伝わっていないのでは、とも感じてきた。

 そうした中、被爆者団体が募った語り部に手を挙げたのは、70歳を超え「死」を意識したからでもある。被爆者6人きょうだいの末っ子。3人は既に他界し、自身も30代半ばから補聴器が欠かせない。健康への不安を抱え続けてきた。

 今年5月、胎内被爆者にとって大きな出来事があった。核拡散防止条約(NPT)を巡り、米ニューヨークであった国際会議。来年のNPT再検討会議に向けた準備会合で、広島原爆に遭った男性(73)が胎内被爆者として初めてスピーチした。「原爆は74年たった今も被爆者の体、暮らし、心に被害を及ぼしている。胎内で被爆したからといって、その被害から免れることはできない。むしろ影響は計り知れない」

 各国代表らを前に「核なき世界」の実現を訴える姿に、陸門さんは感銘した。

 「胎児で被爆した自分たちが、最年少の被爆者として前に出る時期だと気付かされた」。自らが動こうと意を決した。

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 原爆投下から74年。被爆者の平均年齢は82歳を超え、「被爆者のいない時代」が確実に迫っている。自分たちが「最後」であるようにと願う胎内被爆者。その思いをつなぐ。

【胎内被爆者】被爆者援護法は、母親の胎内で被爆した人も被爆者と定める。長崎原爆の場合は1946年6月3日までに生まれた人が対象となる。被爆者健康手帳を持つ被爆者は2018年度末時点で14万5844人(平均年齢は82・65歳)。うち4・8%、6979人が胎内被爆者だ。広島の胎内被爆者の呼び掛けで14年に「全国連絡会」が発足。18年夏に長崎支部(8人)が発足するなど16都県70人が名を連ね、被爆体験の継承の在り方などを模索している。

 被爆者は直接被爆(1号)▽原爆投下から2週間以内に爆心地の約2キロ以内に立ち入った入市被爆(2号)▽被災者の救援や死体処理などで放射能の影響を受けた救護被爆(3号)▽1~3号に該当する母親の胎内にいた胎内被爆(4号)-に分けられる。

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