体験なくても伝える つなぐ~胎内被爆者の74年(2)

西日本新聞 社会面

 爆心地から約6キロ北にある真宗大谷派萬行寺=長崎県時津町=は74年前の夏、臨時の救護所となった。「せめて仏さんの前で死なせてあげよう」。近くの役場に運ばれてきた被爆者のうち、特に重傷者の搬送先だったとされる。計300人以上が収容され、境内を埋めた。手の施しようがなく絶命した人も少なくなかった。

 住職を務めてきた亀井広道さん(73)が寺で生まれたのは原爆投下から3カ月後。悲惨を極めた当時の様子を知る由もない胎内被爆者だ。

 「浴衣などあらゆるものを包帯代わりにした」「手当ては菜種油を塗ってあげるくらい。できることはほとんどなかった」。母の孝子さん=2006年、84歳で死去=に幼少期から地獄のさまを繰り返し聞かされた。食卓でもたびたび話した母。「その話はしないで」と祖母がたしなめても、翌日もやめなかった。今思えば、心に深い傷を負っていたのかもしれない。

 4年前、住職を長男に引き継いだ。被爆者慰霊を大切にしてきた真宗大谷派に市民グループなどから講演の依頼があると、亀井さんが出向く機会が増えた。

 境内に充満するむせかえるようなにおい、人のうめき声-。まるでその場で負傷者に寄り添っていたかのように、当時の様子を語る亀井さんの姿は「なぜ体験したかのように話せるのか」と、聞く人を驚かせる。

 母が幾度も語った核兵器の愚かさは「いつしか五感で染み付いた」。直接体験していなくとも「原体験を聞いた『経験』を語り継ぐことが私の任務」と亀井さんは考えている。

   ◇    ◇

 「最も若い被爆者」とも呼ばれる胎内被爆者は、体験がないがゆえに、ためらいや引け目を抱えて生きてきた。家族の体験を人前で語ることで次世代につなごうとする人もいれば、別の方法で伝えようと人前に立つ人もいる。

 小山マツ子さん(73)=長崎市=は合唱団「被爆者歌う会ひまわり」に11年から所属し、平和祈念式典で核兵器廃絶を願う歌「もう二度と」を披露してきた。

 爆心地から約4・5キロの自宅で被爆したのは両親と当時2歳の兄。警察官の父は救助や不明者捜索のため、爆心地周辺へ毎日通った。髪が抜け、血尿が止まらなかったと母に聞いたが、父は1998年に91歳で亡くなるまで原爆のことはほとんど語らなかった。父は毎年8月9日、自宅裏庭の防空壕(ごう)跡に花を供え、一心に手を合わせていた。幼い頃に見たその背中をよく覚えている。

 「私は原爆のことは何も知らない」と話す小山さんだが、平和祈念像の前で初めて歌ったとき、被爆者の思いが体に絡みつくような不思議な感覚になった。「父のように口に出さず胸に秘めた人ほど、つらさは計り知れないんじゃないか」。体験はなくとも、歌うことで伝えられることがあると信じている。この夏も「語れなかった被爆者」の分まで、心からの歌を届けるつもりだ。

 <聞こえていますか 被爆者の声が><もう二度と作らないで わたしたち被爆者を>

【新たな「語り部」】被爆体験の継承が課題となる中、長崎市は2014年度から被爆者ではない語り部「家族・交流証言者」の育成に取り組んでいる。当初は対象を被爆2、3世に限っていたが、16年度からは家族以外にも広げた。現在は市内外の70人(14~77歳)が登録。修学旅行生らに紙芝居やスライドを使って被爆の実相を伝えている。広島市も12年度から同様の「被爆体験伝承者」を公募。厚生労働省は18年度から、全国で講話する際の旅費を助成しており、活動の場が広がっている。

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