核廃絶の誓い 次代へ つなぐ~胎内被爆者の74年(4)

西日本新聞 社会面

 爆心地の北東500メートル、「東洋一の大聖堂」を誇った長崎市の浦上天主堂も一瞬で崩壊した-。岐阜県大垣市で7月27日にあった平和を考える集いで、長崎原爆の胎内被爆者、宇田茂樹さん(73)=同県垂井町=は親子連れら約50人を前に、パネルを使いながら丁寧にきのこ雲の下の惨状を語った。大垣は、米軍が原爆投下訓練のため「模擬原爆」を落とした街の一つだ。

 宇田さんの母シゲノさん=1991年、71歳で死去=はあの日、爆心地近くの自宅を離れていて九死に一生を得た。夫は北九州・小倉にいた。長男、次男は疎開で離島に。一人で守っていた家は焼失し、焼け野原の地獄をさまよった。

 翌年2月に三男として生まれた宇田さん。間もなく、一家は原爆の風評被害から逃れるように離島の五島に移住した。被爆者に初めて救済の手を差し伸べた旧原爆医療法が施行された57年、両親は体が弱かった宇田さんの分だけ被爆者健康手帳を申請した。振り返ると、家庭で原爆の話は「タブー」だった。両親が手帳を持ったのはさらに20年後のことだ。

 中学卒業後に島を離れ、宇田さんは愛知県で就職した。20歳で結婚、妻の実家がある岐阜で暮らしてきた。日常、被爆者だと意識するのは通院先で手帳を出すときぐらいだった。

 継承活動に力を入れ始めたのは還暦前。高齢化する被爆者団体から「最も若い世代の被爆者」と請われた。「母親からもっと話を聞いておけば」。後悔もあるが、被爆地から離れた場所でもやるべきことがあると気付いた。

   ◇    ◇

 背中を押してくれた人がいる。「これからはあんたらが話さないといけないよ」。長崎の被爆者の象徴的存在だった谷口稜曄(すみてる)さんが、自身の背中一面のやけど痕を見せながら宇田さんに語り掛けてくれた。2011年、都内であった日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の会合で席が隣になった時だった。

 被爆70年の節目、15年に米ニューヨークで開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議に被団協代表団の一員として参加した。核保有国と非保有国の溝が浮き彫りになった現地では、そろって渡米した胎内被爆者4人で連日議論を重ねた。「核なき世界」への取り組みをけん引してきた被爆者の思いを、次世代へとつなぐ役割を自分たちが果たす、と共に誓った。

 核兵器を巡る国際情勢は大きく揺れ動いている。17年に核兵器禁止条約は成立したが、署名・批准国は遅々として増えず、日本政府も後ろ向き。もどかしさが募るが、歩みを止めるわけにはいかない。谷口さんは2年前、志半ば、88歳で亡くなった。

 宇田さんが準備に携わってきた原爆写真展が6日から岐阜県内で始まる。9日もここで思いを巡らせる。「核兵器の放射能の影響がいかにすごいものか、知ってください」。来場者にはシンプルに訴えるつもりだ。そして午前11時2分には目を閉じて願う。あの日の閃光(せんこう)や熱線は体験も記憶もしていないけれど、どうか自分たちが最後の被爆者であるようにと。

 =おわり

【核兵器を巡る国際的枠組み】2017年7月、核兵器を初めて非合法化した核兵器禁止条約が、国連で122カ国・地域の賛成を得て採択された。2年が過ぎた今、加盟国は24カ国。発効要件50カ国のほぼ半数にとどまり、核兵器保有国や、日本を含む核抑止力に依存する国の締結の見通しは立っていない。来年は核拡散防止条約(NPT)の発効から50年。5年に1度の再検討会議が開催される。ただ、今春の準備委員会は会議のたたき台となる勧告案の採択を見送っており、先行きは見通せない。9日の平和祈念式典で長崎市長が読み上げる長崎平和宣言は、日本政府に核兵器禁止条約の署名、批准をより明確に求める。

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