平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(1)満州の地 実力見せつけ協会設立

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 1921(大正10)年秋、岡部平太は旧満州(中国東北部)に渡った。日露戦争に勝利した日本は満州を統治し、新天地として急速に発展を遂げていた。岡部が訪ねたのは、旧奉天(瀋陽)で中学教師をしていた東京高等師範学校時代の親友、四角(しかく)誠一だった。

 「閉塞(へいそく)的な内地の考えでは、俺はやりたいことは何もできん。満州の地から日本のスポーツ界を改革したい」

 岡部はこう訴えて、南満州鉄道(満鉄)への就職斡旋(あっせん)を四角に頼んだ。満鉄は政府が06(明治39)年に設立した半官半民の国策会社。鉄道の他にも、炭鉱や製鉄業、ホテルなど多岐にわたる事業を展開し、日本の満州経営の中核となっていた。

 教育やスポーツにも力を入れており、テニスの名選手だった四角も満鉄幹部の誘いでやってきていた。

 四角に紹介され、岡部は満鉄の大連本社で幹部と面接。米国留学などの経歴が高く評価され、「体育主任」として入社が決まった。給与は内地の知事クラスという破格の待遇だった。

 手始めに、岡部は満鉄を中心とした実業団野球の「大連満州倶楽部」に入る。満州では野球に絶大な人気があり、スポーツを広めるには野球で実力を示すのが一番だと考えたからだ。

 岡部は、捕手として強肩強打と闘志あふれたプレーで活躍。相手チームの選手は「あの人は打席でボールが頭に当たっても知らん顔していた」と語っている。

 柔道や剣道、テニスでも名を上げた。剣道は米国で習得したボクシングから二刀流を編み出し、朝鮮代表を相手に大将まで4人抜きして、異例の4段を授与された。

 その頃、岡部の元に突然の来訪者があった。満州に渡る前、岡部が校長と対立して辞職した水戸高校の教え子たちだった。

 「先生、高校に帰って来てください」

 教え子たちの説得に、岡部は「頼むから満州の地でやらせてくれ」と涙ながらに頭を下げ、別れを告げた。

 スポーツ万能ぶりを発揮し、満州の雄として名をとどろかせた岡部は22(大正11)年、「満州体育協会」を設立する。競技ごとに選手を育成、選考して各大会へ派遣するのが目的だった。岡部は理事長に就任し、内地では成し遂げられなかったスポーツ改革に乗り出す。

 =文中、写真とも敬称略

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 連載第1~3部のあらすじ スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した糸島市出身の岡部平太(1891~1966)。スポーツ万能の少年時代を経て、入学した東京高等師範学校(現筑波大)では柔道などで活躍。留学先の米国でも多くのスポーツに挑み、科学トレーニング理論も習得した。帰国後、異種対抗試合を巡って講道館柔道の創設者、嘉納治五郎と対立し、決別も経験した岡部。次の舞台は新天地の旧満州だった。

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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