「史実残す」胸に紫電改検証 大分で残骸展示、兵庫で原寸模型 戦後74年「遠い過去にさせない」

西日本新聞 夕刊

 戦後74年を前に、旧日本軍の戦闘機「紫電改」を検証し、パイロットを慰霊する動きが各地で起きている。大分県竹田市では5月に部品とみられる残骸の展示ケースが設置され、兵庫県加西市では6月から原寸大模型の公開が始まった。太平洋戦争末期に登場した新鋭機。敗戦の気配が漂う中にあってもパイロットとして戦ったり、製造に従事したりした若者がいた。検証に関わった人々に共通するのは、多くの若者が犠牲になった戦争を遠い過去にさせないとの責任感だ。

 「今を生きる私たちが、未来に向けて何をすべきか考える場所になる」

 5月5日、山間地に田畑が点在する竹田市久保。74年前にこの地で亡くなった紫電改のパイロット粕谷欣三さん(当時19歳)の慰霊祭で、首藤勝次市長は参列者約50人にあいさつした。

 粕谷さんは1945年5月5日、米軍の爆撃機B29と交戦し、この地に落下して死去。B29の搭乗員はパラシュートで脱出後に捕虜となり、後に九州帝国大(現九州大)で生体解剖を受けて命を落とした。

 慰霊祭では、粕谷さんが搭乗していた紫電改の一部とみられる部品の展示ケース、碑文の除幕式もあった。縦30センチ、横60センチ、高さ30センチのケースにエンジン部分に使われたとみられる歯車など6点が並んだ。

 式典の準備や展示ケースの設置に奔走したのは、近くに住む小林正憲さん(70)。小林さんの母が粕谷さんの最期を見届けた。慰霊の気持ちの高まりとともに戦争捕虜の調査研究をしているPOW研究会(東京)のメンバーに打診し、山中に落下した紫電改の残骸を見つけようと、何度も挑戦してきた。

 昨春からの調査で、金属片やガラス片など約60点を発見。「戦争をすれば、破壊さればらばらになってしまう。部品だけでも何とか残したかった」。小林さんが市教育委員会に働き掛け、大分県立歴史博物館による破片の保存処理も実現。展示施設は、訪れた人がいつでも見られるように屋外に設置した。

 展示ケースの台座には「語る紫電改」という文言を刻んだ。時がたち当時の記憶や記録が風化していく中、粕谷さんという青年が戦ったことを後世に伝えたいと小林さんは願う。

 「ここに紫電改にまつわる物があれば、粕谷さんがこの場所で戦い、命を落としたことが分かる。語り掛けてくる何かを感じ取ってくれれば」

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 深い緑色で塗装された戦闘機。近くで見ると、その迫力が伝わってくる。

 兵庫県加西市にある鶉野(うずらの)飛行場跡。備蓄倉庫内には紫電改の原寸大模型がある。「戦争で戦った人たちの存在を忘れてはならない」。「鶉野平和祈念の碑苑保存会」理事で、同県高砂市の上谷昭夫さん(80)はそんな思いを機体に込めた。

 以前、飛行場跡近くの会社に勤務していた上谷さん。1990年代前半、戦友の手掛かりを求めて訪れる人の存在が戦史調査のきっかけとなった。この飛行場は43年、パイロットを養成する「姫路海軍航空隊」の開設を機に整備された。翌44年に川西航空機鶉野工場が併設され、紫電改も製造された。テスト飛行は飛行場の滑走路で行われた。

 長さ1200メートル、幅60メートルのコンクリート製滑走路は現存し、加西市が所有している。20年以上、調査してきた上谷さんらの要請などを受け、市は1500万円で模型を製造した。

 国内に唯一現存する紫電改は愛媛県愛南町に展示されている。この実物や、上谷さんが防衛省から入手したエンジンや機体の図面を参考に造り上げた。74年前、製造に携わった加西市の小谷裕彦さん(92)は、当時使っていた工具箱と機体が同じ色だったと助言し、色合いに反映された。

 市は2022年に、紫電改の関連資料などを展示する施設を造る予定。その計画をにらみ、上谷さんらは関連資料の収集、保存も続けてきた。上谷さんは調査の中でさまざまな意見を聞くが、戦争を遠くにしか感じない世代が増えていることに危機を感じるという。

 上谷さんはこう語った。「まだ間に合う時に、史実を残しておきたい」 

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 【ワードBOX】紫電改 
 旧日本海軍の局地戦闘機。太平洋戦争の戦況悪化に伴い、米軍の戦闘機や爆撃機が日本の空に襲来する中、本土防衛の任務に充てられた。有名な零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を上回る高速性を持ちながら、製造工場への空襲や資材不足などで生産数は約400機にとどまった。長崎県大村市などを拠点にした「343航空隊」に、紫電改を配備。終戦の5カ月前の1945年3月、松山市の上空で敵機57機を撃墜し、味方の損失は13機だったという記録が残っている。

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